統括機能
「本当の私」の事は、現在の私であるこの私にとっては「未知なる私」であるからして何も知らないが
そしてまた、この現在の私は「未知なる私」を意識することができないので、その私のことは知るすべもない。
現在の私であるこの現在の私(以下現在の私)には「現在の私」の事しか分からない。
ただ言えることとは「現在の私」とは全くもって、結果であり、条件付けられた被創作物であり
現在の私とは本当の私でもなく、魂の私ではないことは分かる。
真の私とは主客の分離がないと言われているのに、分離していて分割されているからである。
またそれに、この私には「愛」がなく、「全てが一つで全体そのもののである私」ではないからである。
「見るものは見られるものである」を理解していない私が、「私ではない私」であり、「現在の私」である。
「現在の私」とは「現在の私」が思っているような、「自分自身」というような主体なのではなく対象の一部なのである
対象化できるということは主体ではないと言うことである。真の私ではないと言うことである。
現在の私にとっては、この現在の自分が主体の様に感じられているにすぎない。
「自分が自分の人生を生きて」、「自分が起こしている出来事」であり、「自分の子供」で、「自分の親」だ、「私が自分」だ
「自分が生きている」、「自分の土地だ」「自分の家だ」「自分の才能だ」「自分の所有するものが有る」、「自分の思考や
感覚だ」、「自分の苦しみであり、自分の恐怖である」「自分の肉体や頭脳だ」と言っている私
けれども、その私とは結果である自分に過ぎない。それはちょうどパソコン上のソフトに組み込まれている映像の
私であるように・・
この「現在の私」とは「現在の私のもの」ではなくて、聖なる叡智の根源によって生み出された「こと」であることは確かだ
この現在の私、自我の私とは聖なる叡智の根源が生み出した「創作作品」である
「私は」、「私の」は、実はどこにもないのである。
「現在の私」とは「現在の私」が生み出したのではない
「現在の私」とは、自己と言う実体感覚を統括している「統括機能」の働きの結果である意識であるに過ぎない。
現在の私とは、聖なる叡智の根源によって生み出された「統括機能」の結果である「観念の私」に他ならない。
統括機能の結果の私とは
@それは記憶が支えており
Aその記憶を構成しているのが
思考器官(考えること、思う事)、
身体器官(身体器官、動くこと、行う事)
知覚感覚器官(感じる事)、
欲望願望器官(欲すること願うこと)
記憶器官(イメージ、表象すること)であり
Bそれら上記の器官が正しく充分に機能して「現在の私」という概念である現在のパーソナリティーを生み出している
その「現在の私」とはそれらを統括している機能の意識であり、それらの器官の結果である。
で、その統括機能の「私という観念」の中身である意識とは何か?
それは自我であり、その自我の中身とは
競争心、怖れ、満足、成ること、到ること、進歩すること、支配すること、憎しみ、悲しみ、楽しむこと、尊敬されること
喜び、快楽、プライド、自尊心、自己関心、増上慢、一番になること、安定、安心すること、支配すること、偉大になること
所有すること、悟ること、神のようになることなどである。
けれども自我それは、その様に条件付けられて創られているので、その自我を非難したり、軽蔑するようなことでもない。
この現在の私・・・これらは別に「現在の私」が生み出したのではない。
そのように創造されたのである、その私とは条件付けられている結果であるに過ぎない。
そのように完全なる叡智の根源によって生み出されているので、何も私のものではなく、何も私が選んだのでもない
私という自己感覚を持った自我、「私という観念」の主体である統括機能が「聖なる叡智の根源」によって
生み出され、維持されているのである。それが自我であり、この「現在の私」だ。
そして、その現在の私に直面しているのが「魂からの私」である。
その「魂からの私」が現在の「結果であり観念の私」を自分自身だと錯覚しているのである。
全く同一化している。脳というパソコンに結びついているからである。
シャンカラの言うように瞼の開閉一つをとってもわかることである。
眼球は「現在の私」のものでも、この「現在の私」が生み出したのでもない。
視るための視覚神経も「現在の私」のものでも、「現在の私」が生みだしたのではない。
網膜も同じで、それは「現在の私」のものでも、「現在の私」が生み出したのではない。
視ることとは、それら各器官と神経が密接なる連携システムによって生み出された結果が視覚・見ることであり、
それを「統括機能」が生み出した「記憶である私」が「自分」が「視ている」と思っているに過ぎない。
がしかし、その「視ること」も、その「自分が視ていると思っている記憶の私」も
その記憶の私である統括機能の結果の私が生みだしたのではない
その視覚、それは「現在の私」が生み出したのでも、「現在の私」のものではない
見る為の瞼の開閉は自律神経が行っているが、その自律神経は「現在の私」が生み出したのでも、「現在の私」の
ものではない。脳は「現在の私」が生み出したのではなくて、「現在の私」が脳の結果なのである。
眼球の動きは自律神経ではなくて「統括機能である現在の私」が行っているが、
この自律神経ではない体性神経でもって眼球を動かすシステムを生み出し、支え機能させているのは
「現在の私」ではなく、脳を生み出した聖なる叡智の根源である。
この視ることに於いても「記憶の私」は何ら関与していない
この視覚システムを支え、実際に機能しているのは全くもって「現在の私」ではないのである
けれども
この眼球を自由意志によって動かしているのは「現在の私」という自我である私であるが
この「現在の私」自身こそが、聖なる叡智の根源によって生み出された記憶と各器官の複雑極まる働きによって
機能し生み出されている「私という観念」に過ぎないのである。
そして、この「現在の私」という「私という観念」は「現在の私」によって生み出されたのでも、維持されているのでもない
この「現在の私」という「観念の私」は聖なる根源である叡智によって生み出され維持され運営されているのである。
何故なら上記のそれぞれの器官と記憶が正常に働かなくなったらこの「現在の私」は機能しなくなるからである
「現在の私」とは記憶の働きの結果であり、「魂の系列の本当の私」には属してはいない。観察者ではない、
まして観照者ではない。
この「現在の私」は聖なる根源の叡智の結果であり、結晶でもあるが本当の私では全くない
本当の私、本当の主体とは
この記憶器官と知覚感覚器官と身体と頭脳を創りあげ、維持し、自我を生み出している真の私という根源である
この「現在の私」というこの自我は、この私を造り、条件付け、維持している真の私による
芸術作品なのである
この真の私という完全なる叡智の主体が「現在の私」を使って創作活動をされているのではないだろうか
何れにせよ、私達現在の私とは主体ではない。
主体と思い込んでいる結果である「観念の私」である。「記憶の私」である。
この記憶である私を自分だと錯覚しているのが。この創作芸術作品に触れている魂からの私・観察者である
そしてその「魂からの私」に自由意志を与え、それ故にカルマを与え、輪廻を与え、行為する自由を与え、
真の私の自分と同じように主体感覚を与えて下さったのも、同じ完全なる叡智の主体ではないのか
アートマンはブラフマンだとも言われているのであるから・・・
もし魂の内奥の真の私がこの観察者の私と繋がれば理解することなのであろうけれども、
この観察者である魂からの私も、この「現在の私」も本当の聖なる主体ではないといわれる。
何故、主体ではないかというと対象である客体を持っているからである。
本当の私は対象を持たず客体を持たない主体だからである
「見るものは見られるものである」というところの私が本当の私であり
魂の内奥の真の私だと、「未知なる私」だと、言われている。
そしてその本当の私と繋がったとき
「偽の私」、「現在の私」、「私ではない自我の私」の中にさえも、実は仏性と神性があり、真の私から分離していない
ことが実感されるという。
この「現在の私」とは本当の私の聖なる芸術作品であると言えるのではないか
そして、その芸術作品の自分を自分だと錯覚している「魂からの私」の奥に真の私がいるのではないか
その真の私と、根源である聖なる完全なる叡智は同一であると言われるのである。
アートマンはブラフマンだと。