正見することだけが解放をもたらす
既に解放されていることを正見するためには
まず初めに
内部を正見しなければならない
あるがままを正見しなければならない
(正見とはマインドが二元・分離状態であることにマインドが気づくことから始まる)
マインドという心そのものを正見しなければならない
マインドという自己を正見しなければならない
自分という観察者は、マインドであることをである
そして
この観察者・見るもの・私であるものである「二元・分離の実体」を
正面からじっくりと見なければならない、あるがままをあるがままに
そのとき
見る主体も、見られている対象の私も共にマインドである
マインドとは分離なので、そのマインド自体が、
見る主体と見られる対象・その内容という分離なのである
私の意識の内容は
私の知覚の内容は
私の体験の内容は
それを見ている主体である観察者である私そのものである、
それは分離しているようにみえても同じマインドである
見られている対象は見ている主体である
私の内面で知覚されている、対象である他人の心は、それを知覚している私自身なのだ
私の内面で発見される、私の恐怖は、それを体験しているもの、私そのものである
それは、私だ、私が恐怖なのだ
私の内面にある安定と安全を求めているのは、誰か、それは誰か、それは恐怖それ自体である、
恐怖には安定と安全がないので、それを求めているのだ、
それは丁度、心というマインドは愛ではないので愛を求めているようにである
そこでその愛を求めているもの、即ち恐怖という、マインドの本質を正見すること
正見すること、記憶無しに見ること、正見、これである
このマインドを正見することこそが、そこからの解放をもたらすと言われている
この正見することこそが、変革であり、この正見することこそが救済であり、実在に通じている解放である、と言われている
そしてこのことこそが、「真正の聖なるもの」である
ここでクリシュナムルティーが『英知の教育』という本の中で、子ども達に対して、恐怖について語りかけている箇所を紹介したい
『それで恐怖というものを理解しなければならない
知っての通り、人は恐れている
ー中略ー
人は、どんな種類の恐怖もないときにだけ、ひそかに、知らぬまに「それ」と出会うことが出来る。
恐怖が無くなるやいなや、非常に強い感情を持つに到る。
強く感じれば感じるほど、それだけ、それだけ些細な物事にこだわらなくなる。
一切の美の感情、大いなる沈黙の性質を駆逐していまうのは恐怖である。
だから君たちは、数学を学ぶように恐怖を学ばなければならない。
その為には恐怖から逃げないで、それを見つめることによって、知るようにしなければならない。
それは散歩に出かけていって、突然蛇に出会い、飛び離れてそれを見守るようなものだ。
もし、とても静かにし、じっとしたまま恐れずにいれば、安全な距離をとって、まじまじと見つめることが出来る。
黒い舌や、瞼の無い目を見ることが出来る、鱗や皮膚の模様を見ることが出来る。
もし蛇をじっとよく見て鑑賞すれば、多分その蛇に大きな愛情を覚えるであろう。
が、しかし、恐れていたり逃げ去ったりすれば、見ることは出来ない。
そこで蛇を見つめると同じように、君たちは、この人生と呼ばれる闘い、悲しみや不幸、混乱、葛藤、戦争、憎悪、貪欲、野心、心配、罪悪感といったものを見つめていなければならない。』
そして、この正見することこそが、真正なる聖なる道である
にもかかわらず
此処に私たちがよく知っている「~に到る、~良くなる」というマインドの用意した道がある、観念の錯覚の道がある
「あるがままを、あるがままに見ること」に叛することの逃避の道が用意されている
この逃避の道こそ、自己同一化である
マインドとの同一化、観念との同一化である
愛ではないのに愛していると「思うこと」、「思いこむ」こと、そしてその信念に従って光や何かに出会うこと、超常体験をすること
「自他の分離が生み出した他者」という錯覚対象への愛、を自分は他人?を愛していると思いこむこと
(愛の中には自他の分離はなく、愛する対象もなく、その対象である他人はいないのに)
同じくこの分離が生みだした分離された世界という錯覚対象への愛も、世界への愛と思いこむこと
(愛の中には内部と外部の分離はなく、愛する対象の外部世界もなく、その外部である世界は内部であるのに)
それらは等しく、愛している主体である行為者の自分がいるというマインドが生み出した、錯覚であり
これらは「マインドの錯覚が生み出した私」がする、所謂愛であり、この錯覚の自己が世界の平和を祈り、世界を愛しているのである
しかしこれは勿論、愛ではない、単なる愛という名称のエレメンタルに過ぎない、
愛していると思いこんでいるマインドが創り出した想念形態という物質に過ぎない、これは愛ではない
この「マインドが生み出した私」は真我ではないのに、「我は神であり、真我である」と「信じ思いこむ」のである
しかし
いくら思いこんでも、信じてもこのエレメンタルは実在ではない、単なるマインドが投影し変形したものに過ぎない
この逃避の道は正しい道ではない
だから「我、真我なり、我、神なり」と想念し、観念化したり、自己同一化という方法で逃避したりするのではなく
この実在を覆っているマインドそのものの本質、即ち恐怖を正見することである
これこそが唯一の「実在するもの」へと続く、思考の停止・沈黙に至る道である
この道こそ、「この恐怖は私自身である」、「見るものは見られるものである」として正見することである
逃げないことなのだ、同一化しないことなのだ
この正見こそが、マインドの彼方にあるところの沈黙への入り口なのだ
このあるがままを正見していることこそが、聖なる状態であり、これが真の沈黙への鍵なのだと思う
しかるに、私たちの回りには
このあるがままをあるがままに正見することなく、観念や概念に一体化して逃避し
私は真我であると「思考し」、「想像すること」、「信じること」が蔓延している
私たちは、この想像し、思念することはマインドの働きであることを正見しなければならない
思考や、記憶や、想像は「実在するもの」ではない、「愛」ではない
意識の座に、現れているものを、
見ているのは、見ている対象であるところの観察者である
マインドがマインドに気づいているのだ
そのマインドの中身は恐怖であり、また、あるときは「我神なり」、「我真我なり」という概念・思考でもあるのだ
それは一見すると、全く相反するような、光と闇のようなものに見えるかもしれない
善と悪のように、神と悪魔のように見えるかもしれない
しかし、それは両方とも同じようにマインドからの思考が生み出したものなのだ
それは同じように時間から生まれた概念であり、「実在するもの」ではないのだ
その実在ではないものを実在ではないと正見すること
虚偽を虚偽であると正見すること
このことが私たちの道である
そして、この正見していることが
このマインドという心の中身を正見することが、頭脳の変革をもたらすのだ
しかし、頭脳の変革もたらそうとするのはマインドであり、正見からの働きではない
この頭脳の手術という変革によって悟りを得よう、又は与えようとすることは、マインドの働きである
最高のものを獲得しようとしていること、神になろうとすること、悟ろうとすることこそが、
最高のものではないもの、神ではないもの、悟りではないものが一番望んでいることなのだ
この頭脳の変革によって、「存在するもの」に到ろうとしているものこそ、マインド自体であり、恐怖自体であるからだ
これこそが、「存在するもの」ではないマインドによる、野望であり、彼らマインドの動機なのだ、目的なのだ
この神に到ろうとすること、安全でいたい、安定していたいと願っているものこそが、
マインドであり、二元性そのもの、分離性そのものであり、恐怖そのものであるのだ
それは「非実在」「錯覚」とよばれているものの働きだ
そして、この「非実在」「錯覚」とよばれているものが、聖なるものを手に入れようとして、頭脳の変革を目論み○○○を行うのであるが
それは出来るように見えても、出来ない!
二元性の中での或る体験はしても、それは元に戻ってしまうのだ
なぜなら真の頭脳の変革の成就は、「実在」が行うのだからだ、
それは「根源である実在するもの」が行うことであり、マインドが行うことは出来ない
だから○○○による、頭脳の手術変革は、一時的には成果を収め出来るように見えていても、結局は元に戻ってしまうのだ
その○○○による、頭脳の変革は、邪悪である、
それは聖なる「起こること」を、恐怖であるマインドがしようとしているからである
頭脳の変革は、その頭脳の変革をもたらそうと願うマインドである恐怖によっては、もたらすことは出来ない
「起こること」はマインドでは出来ない
それは「起こる」
それは「実在するもの」からやってくる
そのやってくる唯一の条件が「あるがままを、あるがままであるもの、恐怖、即ち私を正見する」ことである
悟ることや実現することを願う事からではなく、その悟ろうとし、実現しようとしている、この実体に気がつくことである
「~なる」ことは、在ることを否定する、
悟ろうとすることは、悟っていないもの、即ち自我(エゴ)からの運動である
それらの実体を正見することによって、「起こる」ところのものこそが
静寂や沈黙の状態である、
頭脳の変革をマインドの動機と野望でもって、そのマインドに憑き動かされて、頭脳を手術しようとすることは邪悪である
それは恐怖であるマインドが(即ち自己が)チャクラやクンダリーニを開花させようとして、するワークや業法や瞑想でもある
チャクラやクンダリーニは結果として、自然と開花するのであって、それを無理矢理に、自己の欲望に捕らわれて、悟ろう、真我実現しよう、神に到ろうとし、開花させようとしても、それは開花しない、
強いて無理に開花させれば、その花自体も開花しないで萎んでしまう結果に到るであろう
何故なら開花させようとしているものこそが、開花を邪魔しているもの、そのもの自体であるからである
開花させようとしているものこそ、開花しないものである欲望であり、目的と動機であるもの、
「~よくなる」という時間に囚われたもの、その時間そのもの、即ち恐怖であるマインドである
私達はこのチャクラやクンダリーニを無理やりに開花させたり、頭脳を手術して悟りを得ようとしているものは「誰か」を見極めなければならない
その開花や手術をしているものこそ、真の開花や手術をすることが出来ない「マインドの或るもの」である
チャクラやクンダリーニの開花、頭脳の真正なる手術は、
それを行おうとしている「マインドの或るもの」によっては決して出来ないし、することは出来ない
一見すると○○○によって、それに近づいているように思えるかもしれないが、それは幻想である、動機と目的があるからである
真正なる頭脳の手術は「或るもの」ではなく「在るもの」によって行われる
「或るもの」と「在るもの」は発音が同じで、同じように見えるかもしれないが
片方は「非実在」であり、もう一方は「真の実在」である
片方は「錯覚・夢」であり、もう一方は「真実・あるもの・実在するもの」である
そのチャクラやクンダリーニの開花と、頭脳の手術はその「在るもの」によって行われるのであって、そこにマインドである記憶の私は介在していないし、介在することはできない
それは、起こるのであり、結果であり、結果は起こるのであり、私たちが起こすのではない、マインドが起こすのではない
そのチャクラやクンダリーニの開花、頭脳の手術は
恐怖であるものを、「あるがままを、あるがままに見る」ことによって、「非二元・非分離の目で見ることによって」のみ行われる
チャクラやクンダリーニの開花、頭脳の手術は結果であり、求めたり、願ったり、行うことではない
私たちはそれに意識を向ける事柄ではないのだ
それらの結果は自動的に起こるのであり、それは「実在するもの」の領域なのである
だから私たちは
そのチャクラやクンダリーニの開花、頭脳の手術を望んでいるものの正体を正見することこそが、緊急必須の一大事であるのだ
そしてこの具体的な方法であるものは
このクリシュナムルティーが子ども達に言っていることである