自由を求めて
私達は自由を求めていない
自分の願いが、何かの願いが叶うことを求めてはいても、私たちは自由を求めてはいない
願望の成就、それは自由を求めていることではない、その願望そのものから自由になることを求めてはいない
自由とは何だろうか、
それは束縛されていない状態である。
束縛からの自由だ、だから自由というのだ
自由を求める為には、自由を知らねばならないし、そのことを知るためには
私たちには自由はなくて束縛されているということを知らねばならない。
自由への発願が起こると言うことは、既に自由の状態を予感している必要が有り、
これは内部からの目覚めが起こっている証拠である
通常は誰もが自由を求めてはいない、願望・欲望の成就を、それを自由と思っているだけだ
段階的に考察すれば「自由の発願」が顕現するためには、自分が自由ではない状態であることを覚知する必要が有る
即ち、私達は束縛されているのだ、従って私達は自由でもなく、その「自由ではない」との自覚がないために
自由を求めることもないのだ
では何に束縛されているのか、何から自由ではないのか
何故自由ではないのか、なぜ自由への希求が起こらないのか
それは私達が自由ではないということを、全く理解していないからである
自分は「私という観念」に覆われて、数多くの体験や経験に縛られて、何かに到達する、何かになると言う観念・錯覚と
同一化しており「私とは観念ではない」「私は感情ではない」「私は思考ではない」といわれているのに「私という観念」と、
「思考」「感情」「私というプログラム」と同一化しているのだ、それらの観念から自由ではないのだ
それは圧倒的にその「肉体と同一化している私・観念」の感覚や知覚というものの虜となって、自由を失い目を
眩まされているのだ
では自由を希求する発願を妨げている「観念」の束縛とは一体何であるのか、
私達を束縛している「観念」とは具体的には一体何か
■それは時間そのものである、「私は自我である」「この自我が私である」と云う観念と感覚に束縛されているということ、
それは「私が自我である」「私が生きている」「私が行為している」「私が全て為している」「私が欲する」「私が感じている」
「私が思い考えている」という「私という観念」に束縛されていること
真実は、この「私」が思っているではなくて、それら全てから「私」を取り除いた状態、即ち「私」が欲っしているのではなくて、
この意識の座に「 」が欲しているのであり、ただ単に「私」が欲しているのではなくて、「欲すること」が、この意識の座に現れて、
起きているという現象なのに、それを「私」が「欲している」と錯覚したのだ、
その欲すること、起こること、なること、至ることは、すること、の全ては結果であり
プログラムであるに過ぎない、それは「私」とは全く無関係に起きており、進歩し、退歩し、生じ、そして消滅するように組
み込まれているプログラムであって、そこには「私」というものはいないのである、と言われている
■自分が何かを達成し、霊的階位を上昇しているという、霊的に進化しているというこの「自己」という観念に束縛されている
自分が進歩し、良くなっているという実感、自分が進歩しているという感覚とは何か
その「自分」が進歩している、というとき、そこには私と言う感覚が有り、それこそが分離している自我の感覚である
それ故に、この自己の霊的な理解というものが増大してもそれはただ観念が増大したのに過ぎないのではないか、
それは単なる記憶であり、そこには依然として体験をしている「わたし」に力点が置かれている
体験されている対象という客体があり、見られるものを「自分以外のもの」として認識している「私」がいる限りは
即ちそこにそれを認識し記憶している私がいる限りは、二元性の罠からの束縛ではないか
その「私」の神秘体験を認識し、意識の拡大を体験している私とは、依然として「自他の分離」を認識している「見るもの」であり
それを観察している自我であり、それは「見るものは見られるものである」との理解である「気づき」ではない
そこには、それを体験している「私・見る者」がいる
薬物や化学的方法や霊的な方法で強制的に意識を弄く神秘体験を引き起こしても、究極の変化は起こらないのである
認識している自己がいる限りはその体験と経験は頭脳(肉体だけの頭脳ではない)の領域である
それは意識界というマインドという領域内のことであり、その領域を超えることは出来ず
それは畢竟するに「真実ではなき錯覚」であり、観念の束縛である
従ってそれらの体験や認識が自他の分離の域内に留まっているは記憶であり
意識界のマトリックスという束縛であり、観念にすぎない。
そういうわけでいくら良い体験をしても、それを体験している体験者がいる限りは二元性の罠に捉えられているのだ
体験をしている「私」が、それを体験している限りは二元性の束縛から脱することが出来ないのである
私たちは霊的な二元性の罠に束縛されている。
見る主体が有る限りはその体験や経験とは客体であり、客体がある限りは
それはマインドの幻想が生み出したのだ。
自由とはその見るもの、体験者、記憶が存在していない事であり、この自己という認識者、観察者がある限りは決して
自由はあり得ない
■私たちは権威という条件付けによって支配され、束縛されている。
「神という観念」を権威として受け入れてしまい、その観念によって支配され
自分がその観念を崇拝することによってそれと一体となり
それを権威として崇めることで、最終的には自分がその権威となることを実は欲しているのだ
だから権威を崇拝するのだ。自我の支配欲が権威を崇拝させているのだ
権威の崇拝の奥には、自分が権威となり、そして権威として成ること、支配するという野望が
潜んでいるのである、だからこそ神という観念を崇拝し、権威に随順したりするのだ
■私たちは知識や本や聖者の言葉、聖典に書き記るされた「言葉という観念」によって束縛されている
その聖典を生み出した聖者や賢者達は決して如何なる権威からの模倣をもしておらないのだ
それは自由の領域に到っている覚者たちの言葉や生き方というものがそれ以前の聖典などからの模倣などではなく、
全くのオリジナルである事を見れば一目瞭然である
クリシュナムルティーをはじめラマナ・マハリシなどの言葉にはどの書籍や聖典やグルや神からの言葉による引用がない
ことからも知られる。
覚者方は私達の内側にある真の私という根源そのものになったのだ
しかるに、私達であるこの自我は覚者方のようになることを求め(即ち権威を崇拝し)
私達は権威を求め、
聖者や賢者の書き記した書籍や覚者や聖典や神の言葉を記憶して、
その言葉を記憶することで、あたかも自分がそれになったつもりではいるけど、決してそう成っているわけではない。
その聖なる知識とはあくまで記憶に過ぎず、その記憶は私達に変革をもたらすことはないのである。
私達はその聖なる知識に束縛され、聖なる知識によって、かえって束縛されてしまい自由ではない、
観念に囚われているからである、即ち観念に覆われている限りは自由ではないのである。
もし覚者もおらず、クリシュナムルティーやラマナ・マハリシなどの本もなく、その知識もないとしたら、どうするのであろうか
一体どのように生きるのであろうか、
私たちがそのラマナ・マハリシ達に出会わず、まったく何も知ることもないところから出発しなけらばならないとしたら、
どうするのか、ただ一人きりで内側に向かわざるを得ないのではないか
では翻って私達は何故その聖なる知識を得ようとしているのか、
その知識を得ることで、記憶することで私達はその著者である彼ら・覚者の境域に到れるのであろうか?
知識や記憶を積み重ねても私達はその領域に到ることはない
その本もなく、何処からもその知識を得ることが出来なければ、私達はどうするのか
「この聖なる知識を得ようとしている私とは誰なのか」を知ることへと向かわざるを得ないのではないだろうか
だから、いくら聖なる知識を取得しても真実には到らないということ
そして「この聖なる知識でさえも、自己を束縛していることの観念である」ことを認知する段階に到ったなら、
私達はその知識をも捨て、あらゆる聖なる観念からも自由になって、全くのただ一人でこの荒野を歩むのではないか
その知識や観念を捨て去ることができない限りは私たちは自由ではない。
ただ一人あらゆる観念から(知識から)自由となり、その知識である束縛から解放されない限りは
聖なるオリジナリティーは確立されないことだろう。
真の自由はそのオリジナリティーの中にのみあることだろう
そしてその自由の中にのみ解放があることだろう
知識からの解放が、観念からの解放が、思考からの解放が
■私たちは知識のみならず、記憶によって束縛されている
私達は過去、現在、未来を覆っている記憶、記憶という思考の蓄積によって束縛されており、
見る事の「全てが自分とは分離している」と錯覚され、
聖なる状況に於いても、それを客体として対象化してしまうのだ。
聖なるものとは、この野に咲く一輪の花であり、この恐怖であり、憎悪ではないだろうか
その恐怖と憎悪を記憶でもって対象化してしまう限りは、恐怖と写り、憎悪と写ることであろう
この観念の作用である対象化は
聖なる出来事を自分の観念でもって、一つの頂上体験や霊的な体験とスリ違えてしまうのではないか
本当の聖なる体験とは、見る者がいないことであり、いたことがないことであり
私が何処にもおらず、今此処に全くあるがままがあるがままにあることであり、
見る私がいることとは真実の非二元の体験ではないのではないだろうか
■私達は時間によって束縛されている。
その時間、それは進化する、進歩する、良くなると言う時間であり、
それは良くなり、改善し、徐々に時間をかけて、新たなるイニシエーションを経て解放に到るというものである。
ではその解放に到ろうと段階を着実に歩んでいるその私、その時間の中を歩んでいる私とは一体誰であるのだろうか
それは時間と云うマーヤが生み出した根源のプログラムではないのか
このプログラムは確かに生まれてきて、成就することであろうと思われる、
しかしその成就する?ものとは私ではなく時間ではないだろうか
その時間こそが二元性であり、自と他を分離しているものであり、過去と現在と未来に縛られ、自分を意識し認識しているも
のである
それは果たして私であるのであろうか
それは、その私とは、二元性であるマーヤが生み出した進歩する私、即ちプログラムであり、それは根源の錯覚が生み出した
結果なのではないか
その私は私では断じてない!
意識界を自由に行き来しても、対象の認識があり自己と他を分離して捉えている私とは、私ではない。
その私とは如何にパワーがあり高次であっても
それが二元性に束縛され、時間に束縛され、分離性に束縛され、自他の分離によって束縛されている限りは二元性であり
自由がない
自由でないものは私ではない
意識界を旅し、宇宙を旅し、神?に出会っても、それを体験している私がいて、そしてそれが対象である限りは
そこに、見る者がいて、見られるものが分離しているかぎりは、
その私とは偽物であり、それが体験している世界も意識界の中でのことであり畢竟それは頭脳の中の出来事である
ラマナ・マハリシは頭脳が心を生み出し、心が自己を生みだし、その自己が世界と宇宙を生み出していると言われている
だからこの思考というマトリックスを脱出して、頭脳から解放され、自由の領域に参入するためには
知識と言う束縛から解放されていること
記憶という束縛から解放されていること
権威という条件付けから解放されていること
模倣という束縛から解放されていること
自己という束縛から解放されていること
感覚という束縛から解放されていること
五感という束縛から解放されていること
体験という束縛から解放されていること
経験という束縛から解放されていること
観念の神や、グルや尊敬する覚者という観念から解放されていること
時間から解放されていること
思考から解放されていること
マインド・心から解放されていること
自由ではない条件付けである頭脳から解放されていること
自由であろうとすることから解放されていること
そして
私と言う根源プログラムから解放されていること
その既に解放され、既に自由であるものこそが
未知である真の私である