行為者はいないと言えるのか?



A子さん :先日の話し合ったことで言い忘れたことがあるのよ、話してもいいかしら
       Bさんがいつも話している行為と言うことについて、少し時間をとってもらえるかしら
       ラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジなどアドヴァイタの覚者の方々は常々私達は行為し
       ていないと言っているわよね
       それも外面的な肉体の行為だけではなくて、内面的な思いや欲望も行為に含めて
       覚者は、それらの行為はやってきていると言っているけどあなたはどう思うのかしら

Bさん   :そうだよね、初めてその教えを深く知ったのはラマナ・マハリシよりラメッシ(ニサルガダッタ・マ
       ハラジの高弟)のほうだったね
       僕にとっては、これはもの凄い衝撃だったよ、だって良い事も悪いことも僕たち自我は何も関わ
       っていない行為していないと言うんだ、全てが起きているんだとね
       けれど、これは救いでもあったんだよね、なんだか良く理解できないままホッとした感じがそのと
       きしたね〜
       でもこれは大変なことだよね、全ての外面的な肉体の行為も内面的な想念での行為も自我は
       関わっていなくて、根源のプログラムによってこの或る個体に起こっている映像だというのだか
       らビックリしたんだよ

A子さん  :そこで問題が有るのだけど
        そのあなたが言ったこととは最高度の悟りでの状態から見た場合の真実でしょ〜
        それにも関わらず悟っていないわたし達平均的な進化段階にある地球人が、
        「自分は行為していない」ということは、その人にとっては嘘をついていることにならないかしら
        だって、普通の人類は全員が自分が行為しているという事を信じるようにシステム的に神経
        回路から、感覚からも完全にコントロールされているのでしょうから
        一般的人類にとっては「自分が行為しているんだ!」と実感しているわけでBさんの様にホーム
        ページで「行為は起きている」などということはBさんの現在の実存の状況からすると嘘をつい
        ているという事にならないかしら
        あなたに面と向かってそのように言うのは決して非難しているわけではないわよ
        ただ、あなたの現在の状況では決して「行為は起きている」という事を自分の体験として言う
        ことは出来ないと思うのよ、だってあなたの今の実存では自我として生きているのでしょう
        内面では真我ではないの、だから、あなたは必ず「自分が行為しているのだ」と実感している
        はずよ、にもかかわらず、表面の意識で「自分は行為していない」と言い聞かせても、あなたは
        矛盾だらけになっているわ、でそういう実体のあなたは当然他人を見ても「その他人が行為し
        ている」とおもい、内部と外部の出来事にもあなたは巻き込まれているはずだわよ
        それにも関わらず「行為は起きている」とホームページに書くことは嘘を書いていることにならな
        いかしら

Bさん   :う〜ん、すこし考えさせてくれるかい・・・
       ・・・・そうだね、君の言うとおりだと思う
       僕は確かにこの「行為は起きている」と言うことは全くの真実だと信じているよ
       しかしこの真実とは高次の次元の意識が言えることで、そこから見た場合の真実だよね
       僕たちのこの次元では自分が行為しているように錯覚するように仕組まれてプログラムされている
       以上は僕たちにとっての現実感はやはり「自分が行為している」ということだよね
       だから絶対的な真実の次元での本当のことと、僕たちのこの感覚をコントロールされシステム
       的に仕組まれている次元での自分にとっての現実とは「自分が行為しているとおもえる」というこ
       とだよね
       それにも関わらずA子さんの言うように「自分は行為していない、行為は起きている」ということを
       言うのは嘘を言っていることになるね
       それはその通りだね、・・・・恥ずかしいけどその通りだよ
       だけどニサルガダッタ・マハラジの言うことも信じられるんだ
       だから結局は言葉を正確に言う必要が有るんだよね
       『ニサルガダッタ・マハラジやラマナ・マハリシの絶対的な覚者の見地からすると「行為は起き
       ている・行為者はいない」といえる』、とね
       自己弁護するわけではないのだが、ところがこれをしょちゅう学んでいると、これが自分が本
       当に理解していることなのか、それとも信じ込んでいることなのか分からなくなるんだよ

A子さん  :この辺のことは少しデリケートな問題ね、
        例えばクリシュナムルティーなどが言う「「見るものは見られるものである」という有名な非二元性
        アドヴァイタの言葉があるわね
        これはカルキの言うようにこの言葉は悟った人の感じている現状をそのまま述べたことだと思
        うわ、それをこの分離して全く見る自分と見られる対象が分離していることを実感している私が
        みんなの前で「見るものは見られるものである」と言ったらそれは嘘をついていることになるし、
        最高度の真実を冒涜していることになるのよ

Bさん   :でもそれならどうして聖者や覚者はこの次元の低い我々には認識することが出来ないにも関わ
       らずこのように本当のことを言うのだろうか、それはきっと僕たちに種を蒔いているのだと思うよ、
       今生では芽を出すことは出来なくても、きっといつかの来世でこの言葉が分かるときが来ると思
       って、彼らは話しているんだよ
       だから問題なのはあくまで彼ら、覚者達ではなくて僕たちなんだよ、僕たちがこの真実を知るこ
       とが出来るかどうかどうかだよね

A子さん  :そうねクリシュナムルティーも言っているけど、Bさん、言っちゃ悪いけどあなたが知性や理性
        で納得したこととは決して理解したことではないわよ  
        ことこのような真実に関しては学校教育のように記憶したことが理解したこととは全くならない
        のよ、むしろ学校教育のような記憶による理解とは、ことこのような真実に関して言えばそれは
        誤解してしまう事なのよ
        申し訳ないけどBさん、あなたはこの社会通念に毒されているのよ、だからあなたはあなたが
        記憶して知識したこととは理解したのではなくて誤解したことなのだと言うことをハッキリと知る
        べきよ

Bさん    :そうか・・・・・う〜ん

A子さん   :事この高次の次元に関しての理解は、記憶することも出来ず、記憶では全く役に立たないわよ
        だから、私は言いにくいことをあなたに敢えて言うけど分かってほしいわ 
        この高次の次元の事、例えば「見るものは見られるものである」とか「行為は起きている、行為者
        はいない」などのことは知識ではなくて、体で全体で理解する事よ、
        う〜ん、わたしもここから先は言えないわ、でも理解とは訪れること、やってくることなのよね、
        何となくそんな気がするの、だからBさん、あなたとしては私が思うにそれが禅の公案のように寝ても覚
        めても常に目の前にぶら下がっている程の一大事で避けられないほどの緊急事になったときに、
        自ずからそれの理解が姿を現すようにおもえるの・・・

Bさん   :そうだね、この「見るものは見られるものである」とか「行為は起こっている、行為者はいない」という
       ことが自分にとっての最大緊急事にならない限り、それはやってこないかもね
       それに、僕がその言葉を体験もなしに、言うことは嘘をついていることになると言うことも分かったよ
       このあるがままの僕、「見るものは見られるものである」ではない低次の次元のマインド、また観る者
       と観られる者が分離している私・自我が実存の私であるのだし、此処からしか出発できないようね
       だって、このあるがままの自分を偏見や非難や判断を交えないで凝視し続けることがクリシュナムル
       ティーたちが説き続けたことだものね
       やっぱり、君の言うように言葉だけで「見るものは見られるものである」と言ったり「行為は起きている」
       と理解もなしに言うこと自体が、現実のこのあるがままの自分からの逃避なんだよね
       自分がこのあるがままの実存の自分から逃避しようとするから、きっとその高次の事実を理解もせずに
       他人に話したりするんだね、だってもし理解していたら君は僕に見えるだろうし、その次元の観点であるなら
       世界と自分は分離しておらず、自分が世界であるように実感しているだろうからね
       このあるがままの僕は分裂して、多くの人格の集まりでしかないこの実存から決して「行為者はいない」
       などといってこの自我から逃避しないで、この自我人格が理想へと、非現実へと(というのもこのこの
       自我の人格にとっては「行為者はいない」ということが理想であり非現実なのであるから)に逃避しよう
       としていたんだよね


A子さん  :だから決してこのあるがままの実際の複数の私から、この愛のない私から逃避することなく留まって
        じっと抱きしめる事が肝要なことではないのかしら
        だってその抱きしめる私こそが抱きしめられている私そのものでしょう・・・
        「行為者はいない」と信じ込んでいるわたしこそ、その「自分が行為していると思い込んでいる」わたし
        なのよ、即ち「自分が行為していると思っている私」よね・・・・

Bさん   :そうだね分かった!有り難うね
       またそのことで時間があったら話そうね
  
A子さん  :づけづけいってごめんなさいね、でもあなたに良くなって貰いたいからよ分かってね

Bさん   :分かっているよ、じゃあね
    

















 
         

       

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