時間-それは嘘
ないものを、あるように見せているものとは何か
存在せず、実際はないのに、あるように見せて、感じさせることを−マトリックス−と云い
それを信じ込んで、疑わずに思うことを-錯覚−という。
何故、私達は錯覚しているのか、又は錯覚に囚われているのか。
その錯覚している私とは、本当に私であるのだろうか
その錯覚している私とは
それは思考という時間が動き回っているのを見て、思考を自分だと思ってしまい
そのように錯覚している思考の自分が、時間が生み出した思考を私だと考えているのではないか
思考である時間が、見る自分と、対象の自分を生み出したのではないか
だから対象のある、又は対象を見て、認識している自分とは、対象共々時間が生み出したのだ
主体と客体のペアになっている主体は真の主体ではなく、対象を持たない純粋な主体が真の主体だと
云われている所以である。
多くの覚者方は
時間とは存在しておらず、過去も現在も未来も「存在していない」と言われているのに
何故、私たちは時間があると思い込むのだろうか
若しくは、「時間があると思い込んでいる私」を私と信じているのか
それは頭脳が、現在の地球の人類のように、時間というものによって条件付けられ、
同じく、そのような「時間感覚を持っている思考」である錯覚が頭脳にやってきて、
その結果として、
今度は頭脳が内側(内部)と外側(外部)の分離と、過去現在未来という虚偽世界(マトリックス)を投影し、
この現象、虚偽世界という幻想世界を生み出し、維持しているのではないだろうか
クリシュナムルティーは「時間は敵だ」といったが、何故時間とは敵なのだろうか
覚者方によって言われているように、もし時間がなく、従って過去がなく、未来もなく、現在もなく
「今」しかないのに、それらの過去現在未来という時間に縛られているとしたなら
この現在や過去や未来という時間なるものとは、一体何か?
本当に覚者方によって言われているように、時間と云うものは虚偽であり、錯覚であり、真実は「今」しか存在しておらず、過去や未来や現在は本当は存在していないとしたなら・・・・
その時間の中に生きていると感覚されている私達とは・・・・・・時間と云う錯覚・マトリックスの中で生きていると思い込んでいる私だということだ
その時間である過去と現在と未来を決して疑わない私とは・・・・・・・、この錯覚している私とは、誰か
この時間を信じている私とは一体誰か
この錯覚し、「時間というもの」があると思って瞑想したり、修行したりして、時間と云う錯覚から抜け出すために覚醒したいと思い、輪廻を続けている、ところの私とは誰か
その私や私たちとは、時間が生み出している思考ではないだろうか
本当はこの錯覚している私・個人とは、存在していないのではないだろうか。
単に一時的に(数十億年かかっていても)分離した自己感覚を持ち、その自己感覚の継続である記憶であるもの、結果であるプログラムなのではないだろうか
それが「私だと思っている私ではないもの」である、それがこの現在のパーソナリティーではないだろうか。
この時間を認識している私
この時間を知覚している私
この時間があると思っている私
この現在の知覚している私を私だと思っている私
この感覚を自分の感覚と思っている私
この行為していると「思い込んでいる私」を私だと思っている私
この私は、本当に私だろうか
それともそれは頭脳の条件付けや、頭脳にやってきている時間である思考が生み出した結果なのではないだろうか、それが私だと自己主張しているだけなのではないだろうか
その「結果である思考」によって生み出された私が、自分の知覚だ、自分が行為している、自分が意識していると錯覚しているのではないか
それでは、この錯覚という私なしに、見、聞き、味わい、感じ、日常生活を生きることは不可能であるのか
この自己感覚なしに、(この条件付けられた私ではなく)て、非個人として、非思考として、静かに、沈黙して
鳥の囀りを聞き
花々を見、街の景色を見、
食べ物を味わい
友人や職場で話をし
家族や職場や友人と接し
苦悩に耳を傾け
自我(エゴ)の苦しみ、悲しみ、恐怖を静かに観照することは出来ないことだろうか
それは実際には、なかなかそうであることは当面は無理だとしても
方向性として
そのように模倣することは可能なことであるだろう
いずれにしても、この分離である「錯覚」に、
この時間と云う「思考」に
そして、その思考が生み出した自己感覚、自己関心に陥ったり、自己同一化したり
その虜になる必要は全くないだろう
その錯覚の大元が時間と云うものなのではないだろうか
過去や現在や未来という時間という感覚そのものが根本錯覚だとしたら
その現在過去未来という錯覚から醒め、「今」に目覚め、「今」に生きることが出来たなら
きっと私は存在していなかったことが判明するのであろう
その時、ニサルガダッタ・マハラジやラマナ・マハリシかたの覚者の言われるように
外部は内部であり、内部は外部であること
私たちは個人ではなく、非個人であり。一体であること。一つであったこと。
私が世界であり、世界が私であること
私たちは身体ではなく、また幽体や霊体やその他の高級身体でもなく、
個人や人格でもなく、自我でもなく 、輪廻している実体でもなく、記憶体(コーザル体)でもなく
本当の私であること、だから、あらゆる所に遍在していること
また、あらゆるものと分離してあらず、ただ一つであること
私は貴方であり、それがわたしであったこと
全ては完全で完璧であり、全てが全てで在ること、ただ一つであること、
何も分離していなかったこと
そして過去もなく、現在もなく、未来もなく、「今」しかなく、この「今・此処」はすべてであること
この時間というものである思考が完全に停止し、終焉し
「今」というものが目覚めたとき
このことが知識ではなく、実際の事実として理解されたとき
その「今」であることは・・・・・
しかし、この現在のリアリティーの私にとっては、その状態がどうであるのか、どうなっているのかの推測も想像すらも出来ない。
ニサルガダッタ・マハラジは次のように時間について言及している
『あなたがどこへ行こうと、今、ここという感覚はつねにあなたとともにある。
それはつまり、あなたは時間と空間に依存していないということだ。
時間と空間はあなたのなかにあり、あなたがそれらのなかにあるのではない。
時間と空間に限定された身体との自己同一化が、あなたに有限の感覚を与えるのだ。
実際には、あなたは無限で永遠なのだ。
何をしようとあなたが変わることはないだろう。
なぜなら、あなたには変わる必要がないからだ。
あなたは身体やマインドを変えるかもしれない。
だが、それはつねにあなたではなく、何か外側が変わったのだ。
いったいどうして変わることを気にするのか?
身体もマインドも、また意識さえもあなた自身ではないと、きっぱりと自覚 しなさい。
そして意識も無意識も超えたあなたの真の本性のなかにひとり在りなさい。
明確な理解を除いては、いかなる努力もあなたをそこへ連れていかないだろう。
あなたの誤解を明らかにし、それを捨て去りなさい。
ただそれだけだ。
そこには探したり、見いだしたりするものは何もない。
なぜなら、何も失われてはいないからだ。
リラックスしなさい。
そして「私は在る」を見守りなさい。 実在はその背後にあるのだ。
静かにしなさい。
沈黙しなさい。
それは現れるだろう。
あるいはむしろ、それがあなたをそのなかへと連れていくだろう。』