想像せよ、友よ
クリシュナムルティーを学んでいる方々は、信念とか信仰とか確信とか想像とか聖霊とかいう
ことばに対しては最初から嫌悪感を示して遠ざかる事であろう・・がしかし
よく見れば、私達は既に何かを信じているのであり、それ故に何かを信じているから、「信じることには
不信が含まれているということだ」というKの教えの観念と信仰を持っている
私達の考えというのはそのように「或る考えに染まっている」ことに過ぎないことを気がつくことである。
私達は何れにせよ既に何かを信じてしまっているのである
が、しかし内なる真実の私を「信じること」とは決して不信ではない。
真の私を信じれるということとは、それは既に内在している「真の私」が発動している証左なのである
「真の私」が動いているからこそ「真の私」に対しての確信が生じているのである。
新たなる地平が開けている。それがこの真の私に対しての確信と信念と信仰である。そしてこの確信が
信念や信仰を超越した本当の理解へと達する唯一の道なのであると思える。
信仰はこちら側のもので有るに対して、理解はあちら側の特徴だからだ。
信頼はまた真の私に対する正しい想像力によって涵養されていく。
想像力が創造力をもっておりそれが私達現在のパーソナリティーを真の私へと導いていくのだ、と
ここでミルダッドは力説する
〈想像力〉を働かせなさい。
(想像力)が驚嘆すべき宝への真正なる導き手だ。
驚嘆すべき宝とは、あなた自身の王国である人跡未踏の(存在)だ。
大胆で怖れのない心でもってその導きに従いなさい
(※此処でも又、クリシュナムルティーを学んでいる人は心という言葉に先入観を持っているために、
ミルダッドが「心でもって」というと、その心という言葉に引っ掛かってしまい、心=思考と言う図式の先入観で
考えてしまうために、心がどれ程深く多層的であり、単に二元性の媒体だけではない、もっと精妙な次元や
側面を見落としてしまう。心とは多層次元にまたがって機能しており思考から非思考までもを含んでいる)
(想像力)が印した足跡がたとえ最も遠い星にあっても、
それはあなたが既に到達しているということの徴であり、証だ。
というのも、
あなたがたの内にあるもの、或いはあなた方の一部であるものしかあなたがたには想像
できないのだから。
樹はその根より遠くへ拡がることは出来ない。ところが人間は無限に拡がることが出来る。
何故なら人間は永遠に根ざしているのだから。
(※私達は自分を肉体だと信じており、自分の根が宇宙の果てにまで届いていることを認めることが出来な
いのは、知覚をしている脳の条件付けと性能によって現在のパーソナリティーの知覚も左右されており、
その脳の結果を認識しているからである。現在のパーソナリティーが脳の状態に縛られているからである)
(※脳の条件付けが解放され、脳自体が純粋化し精妙化した場合は高次の真の私の波動を受信
する事が可能となり、それをより精妙化し、純粋化した現在のパーソナリティーも知覚し、認識した
場合に自分が無限に拡がっていることを認識できるのであろう)
自分に限界を設けるのをやめなさい。
自分がいない領域がなくなるまで拡がりなさい。
自分がたまたまいるところがどこであろうとも、そこが全世界となるまで拡がりなさい。
自分自身と出会うところが何処であろうと、そこが神と出会うところになるまで拡がりなさい。
拡がりなさい。拡がりなさい!
ミルダッドはあなたがたに無限を囲み覆って貰いたい。
海は大地に保たれた水滴に過ぎないのに大地を囲み覆っている。
海が人間よりも無限で広大だろうか?。
人間を頭からつま先まで計測して
その限界を見つけたと思うほど幼稚であってはならない。
あなた方は少数かもしれない、しかしその少数の中になんと多くの群衆がいることか!
わたしが金銀を投げ捨てなければ、金銀にどん底まで引きずり降ろされるだろう。というのも人間は
所有する全てのものに所有されるのだから。
事物につかまれたくないのなら、事物を掴む手を離しなさい
この私は幻想、神から分離したこの人格は、新しく開いた目の幻想、
(※此処で言われている新しく開かれた目というのは、覚醒して開かれた真の私の目のことではなくて、
その逆の、蛇に唆され知恵という二元のリンゴを食べたことによって神との一体から分離し、エデンの園から
追放されてしまった、そのことによって開かれた分離の眼のことを指している。
そう言うわけで、この人格というのは分離した眼によって発生した幻想だと言われているが、
それは魂である「自己」のことではない)
この幻想の自己は実体がなく現実性もない。
(※個人人格は実体がなく現実性もないと言うこと)
それが生まれたのは、人間がこの自己の死を通じて自らの本来の自己、
(※本来の自己である私が生まれるためには、この神から分離した人格が死ぬときである、と言われる
人格が死ななければ、本来の自己は誕生しないと言うことをハッキリと述べておられる
この新しく開いた目による幻想の結果である人格が終焉することが本来の自己が誕生するときであると)
即ち神の自己を知るためである。
この幻想は外の眼がくらまされ、内の眼が輝かされるときには
消え去る
私はあなた方に言うが、神と人があるのではない。
あるのは神人、あるいは人神だ。
あるのは(一つだ)。
いかに多くなろうと、如何に分割されようとも、あるのは永遠に(一つ)だ。
神が一つであることが神の永遠の法だ。法はそれ自身で強制力を持っている。
宇宙−見える宇宙と見えない宇宙−は聞く耳を持つ全てのものにとって、この法を宣言する
単一の口にすぎない
海は広く深いけれども、一滴の滴ではないのか?
地球は、広大な空間を巡ってはいるが、一つの星ではないのか?
星々は数え切れないけれども、単一の宇宙ではないのか?
(※ミルダッドは惑星連合や銀河連盟ではなくて、全宇宙が一つの単一の身体であり、一つの私=
真我の中に在ることを此処で言っている、宇宙のあらゆる次元とあらゆる星々の住民、
生き物も生き物ではないものも、この単一体である真我の中にあるのである
これと同様に人類も又、単一の人間である。
あらゆる世界に住まう人間も又これと同様に完全なる単一性である。
私の同行者たちよ、神の単一性が存在の唯一の法だ。この法の別名は(愛)。この法を知り
この法によって暮らすことは(生命)に住まうこと。しかし他の法によって暮らすことは、非存在
或いは(死)に住まうことである。
全てを知ったときあなたは誰も裁かないだろう
自らを有罪にしている者に罪を宣告する代わりに、あなたはその人を罪から救い出そうと
奮闘するだろう
おのおのの生き物の出納簿は毎瞬、毎瞬、精算されている。何も隠されてはいない。何も測
られないままではいない。
如何なる思考、如何なる行為、如何なる願いであろうと、思考者、行為者、願い手に記録され
ないことはない。
如何なる思考、如何なる行為、如何なる願いであろうとも、世界にあって実りなく終わることはない。
(ミルダッドよあなたは誰ですか?)
人と共に在れば、私は神。神と共に在れば、私は人。
神は多ではない。神は一である。
しかしながら人の影は多様である。人が地上に影を投げかける限り、
各人の神その影より偉大ではない。
影なき者のみが全き光の中にいる。
(※「各人の神」の各人とは真我のことであり、神とは神我である、「神その影」とは神の創造物である
ところの「宇宙知性生命体」のことを指し示しており、その人とは真我を指し、その人の影とは
分離している個人人格を指している。その時は現在のパーソナリティーは既に魂と結合し、魂は魂の
内奥と一つになっている)
影なき者のみが一なる神を知る。というのは神は光であり、
光のみが光を知る事が出来るから。
如何なる名前が、最早「殻の中に」いない人間のことを示せるのか?如何なる國が宇宙全体を
包みこんでいる人間を包みこめるのか
人間は無尽蔵だ。彼は鍛冶場に人間としていくが神として出てくる。
仲間達よ、神と人とを分かつことは出来ない。
それ故に人間を同胞達や〈言葉〉から生まれる全ての生き物と分かつことは出来ない
自らを空にするのでなければ、人間は自分自身を見いだすことは出来ない!
ああ、空になる喜びよ!
神の無限の空間の中で、あなたが(私)という言葉を発するたびに、それに応えて喜びの鐘を
鳴らさない者はいないだろう
(※この場合の私とは宇宙の全てであり、全てが同一で単一の私である。それが此処で言われる
私である)
私はあなた方に言う。あなたの肉と骨はあなた方だけの肉と骨ではない。天地の同じ肉鍋に
あなたとともに無数の腕が浸されている。そこからあなたの肉と骨は生じ、そこへとあなたの
肉と骨は還る。
あるいはまた、あなたの胸の息はあなただけの息ではない。全ての息あるもの、あるいはかって
息したもの全てがあなたの胸で息している。
あるいはまたあなたの思考は、あなただけの思考ではない。
共通の思考の大海が、それを自らのものだと主張する。
あなたとその大海を共有している全ての思考する存在も同じ事を主張する。
(※思考している私達の思考とは、思考と言う大海の思考、即ち地球の思考帯というスーパーコンピューター
の記憶ディスクから脳に届いているにもかかわらず、地球の全ての人格や個人は、それを自分個人が思い
考えているのだと主張している。がそれらの思考は全てが共通のスパコンのハードディスクから来ていると
言われる)
あなたの夢はあなただけの夢ではない。宇宙全体があなたの夢で夢見ている。
あるいはあなたの家はあなただけの家ではない。それは同時に客の住まいであり、蠅、鼠、猫
及びあなたと居を共にする全ての生き物の住まいだ。
(聖霊)によってのみ人間は、自らが自らの創造物と一体であり、敵を投げ捨てることは友を
投げ捨てる事であると理解出来る。
(※理解と言うことは聖霊によって引き起こされることであり、聖霊が脳を変え、現在のパーソナリティーをも
高い波動に同調できるように変える事によって引き起こされたことである
此処では創造者は創造されるものであるということを云っている。私が宇宙を創造しているのであると)
というのも「敵」と「友」という言葉は何れも人間の言葉-人間の私−創造物なのなのだから
あなたがたが神と共にいなかった時間があったか?
あなた方が神の内にいない空間があるか?
あなたは神の生によってのみ生きるのではないか?
(そしてそれらを理解したとき、神に呼びかけられて震えることなく縛られることなく神々しく晴れやかに
神に答えるだろう)
「私達を見てください、
神よ−私達の存在、私達の唯一の自己を。
恥と怖れと苦痛の内に私達は、あなたが(時間)の曙で私達に定めた、長く厳しく苦しい(善)と(悪)
の道を歩んできました
(大いなる郷愁)が足を促し、(信念)が心を支え、今や(理解)が重荷を取り除き
傷口をふさぎました。
かくして私は、(善)と(悪)を脱ぎ、(生)と(死)を脱ぎ、(二元性)のあらゆる幻想を脱ぎ、
全てを抱擁する(自己)以外のあらゆる自己を脱ぎ、あなたの聖なる臨在の前に戻ってきました。
裸身を隠すいかなる無花果の葉もなく、あなたの前に恥じることなく、恐れることなく、光明を得て
私達は立ちます。
見てください
私達は統一したのです
見てください、
私達は克服したのです」
そして神は無限の(愛)をもってあなた方を抱擁し、まっすぐにあなたがたを神の(生命の樹)
へと連れて行くだろう