蓮の花はドロの中からしか開花しない



何故、多くの覚者達は私でないものを、私ではないと見ることが真我への路であることを強調するのか

なぜ、自我(エゴ)という私ではないものの発見だけが、真我へのみちであることを強調するのか

クリシュナムルティーをはじめニサルガダッタ・マハラジ・ラマナ・マハリシ達は何故「私は誰か」と問うことによって

私ではない、この概念や記憶という自我(エゴ)を発見すること、見いだすことだけが唯一の道であることを言われるのか

あれほどまでに、執拗と思われるほどにヒマラヤの聖者達が「自我の暴露」というワークだけが真我への路であることを説くのは何故か

何故、真の私に接近するには肯定的方法ではなく、否定的にしか方法は無いと強調するのか


此処に鍵があると思われる、此処に真実・真の私に至る唯一の方法があるのではないか

それこそが「虚偽を虚偽と見切ること」という一大ワークなのである

これこそが、私は誰かと問うことによって私ではないものを、次々にそぎ落としていく一大ワークなのである

私が個人的に感じた、その概念とは要約すると以下のようである




蓮の花という真我はドロの中からしか開花しない、咲かない

この泥という中からしか蓮の花は咲かないのだ

蓮の花は泥でなく美しい概念の中からでは、開花することは出来ない、その美しい概念こそ闇なのだ、思考なのだ

「我は神なり」「我と神とは一体なり」と、そう想い、信じることからは想念形態という虚偽へしか行き着かない、思考という意識界のなかを鎖に繋がれて、良い気分に酔っているだけだ、という危険性がある

「我は神なり」と、そのように信じたり、そのように思ったり、意識を集中せずとも、未知なる絶対成るものは「今此処」に未知なるものとして厳然としてすでに「在る」!

何処を探す必要もないし、何処に行く必要もない、その為に何かをする必要もない


思考という闇・虚偽が去ったとき、そこには真理という真我(神)を覆っていた虚偽が去り、既に最初から此処に在る輝く真我が現れる

はじめから探さなくても、既に在ったものが輝き始めるのだ

今此処にすでに在るのに、何処かへ、光で在る真我を探すこと自体が思考である闇の働きだ

その初めから既に在った真我が輝き始めるためには、それを覆っていた闇という虚偽が去るだけだ

蓮の花という真我が出現するのは「〜になる」、進化する、実現する、到達するのではない。

時間は必要ない

いま・此処には、既に泥という虚偽である自我(エゴ)を正見することの中から生まれた蓮の花は咲いているのである

この自我(エゴ)という泥であり虚偽であるものを、泥であり虚偽であり自我(エゴ)であると「見る」ことによって、蓮の花は生まれるのである

この「見る」ことこそが、真我の働きである

「見る」ことが生まれることである

それは、タマネギの皮を剥くに似ている

次々と剥ききったときに、最後には何もない、その剥く人と、その観察者の観察する対象という、この世界である虚偽が落ち、観察者・自我(エゴ)という虚偽のない空が出現するのである

見る者・観察者、思考者、行為する者、転生しているプログラムが存在しない!!と、言われる

ここに最大の祝福と愛と歓喜が出現する、それが最初から既にあった「存在」であり、真我である

しかし、ここへはワークというものが必要とされる、そこへの唯一の作業が必要とされる

そのワークこそが「虚偽を虚偽と見ること」「自我(エゴ)を自我(エゴ)と見ること」「私ではない者を私ではないと発見していく」ことである

この発見し、見つけている自分自身も含め、発見される主体も客体もすべてが真の私ではない

発見するこの観察者、認識者、知覚者、体験者も、発見される対象である思考や感情や「我は神なり」という概念も、時間も空間も、すべては真の私ではない、すべては思考という意識界のトリックである

内部も外部も私ではない

内部も外部もマトリックスである

しかしこのマトリックスが離れるためにはマトリックスをマトリックスと正見しなければ、またマトリックスに陥ってしまう
マトリックスから覚醒したというマトリックスへである

夢から醒めたという夢を見ることもある
覚醒し、真我を実現したという夢を見るのである

しかし、真実、夢から覚醒するためには、夢を夢と正見するしか方法はない

そのとき

この闇の中から光が差し始める

闇を闇と見、虚偽を虚偽と見ることの中に光が差し始める

真の私ではない自我(エゴ)を自我(エゴ)であると見ることの中に、初めから既に在った真の私が輝き始める

「虚偽の中に真理を見る」ことが起こるのである

泥の中から蓮の花がつぼみを持ち始めたのである

これが、この「虚偽を虚偽を見ること」の中から生まれたものだ

即ち「虚偽の中に真理を見る」という次のステップである

だから真理は虚偽を虚偽と見ることの中から生まれる

光は闇を闇と見ることによってのみ輝き始めるのである

何故なら闇が徐々に晴れてくるからである

これこそ思考の正体が見破られる、このときである

思考が正見され、去るとき、初めからあった、気づきという意識が現れる

思考と言う数珠繋ぎに連なっている、この過去という時間の連鎖が

実は隙間が在ることが発見されるのである

この隙間の発見こそが瞑想であり

この思考の隙間の発見こそが真我の覚醒である

しかしこれは思考を受動的に凝視する中でしか起こることは出来ない

「我は神なり」という想いに耽ることではない

そうではなくて、このあるがままの思考の連なりの中の途切れ・隙間の発見が解放をもたらす

この思考の隙間の発見のみが、本当の「我は神なり」そのものへと拡がっていくのである

だからこの隙間の発見こそが真の瞑想であり

その為には


思考を思考と見るワーク

即ち、私ではないものである思考と言う虚偽を虚偽と見るワークが必要であり

そのワークだけが思考の隙間という「空」・真我の開花に繋がるのである

それのみが真我を覆っている闇を晴らす唯一の方法であると力説されるのである

そして

このとき

その思考という闇を闇と見ることの中に真の私という蓮の花は咲き始める

蓮の花は思考という「真の私ではない闇」を「闇」と見ることの中にしか咲かないのである

とそのように

覚者は言われているのではないか





















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