「人見て法説け」
これは
その人のレベルに合わせて、その人に消化されやすい事を言うことである
このことは終始一貫して、私たちのレベルではなく天使や神々に対して切々と話しかけているかのような、
究極のみを語り続けたクリシュナムルティー
や
現象界を現象界として詳しく説明するエレブナ
また
光という真我が在るときそこには分離という闇は無いと、教え下さるラマナ・マハリシ
などなど
真我からの教えは
本人の霊的な覚醒度に合わせて、教えの焦点が異なるので
私たちは覚者たちが
今はどのレベルに合わせて教えられているのかをその場、その場で理解する必要がある
或る先生の場合はクリシュナムルティーとは違って
会場に訪れた私たちにより、私達の巾がレベルが大きく異なるので、
それに応じて、かなり講話の内容は異なってくる
従って先生のお話を、聞く際に、聞く者自身がそれを理解しておくことが望ましい
しかし、とはいっても
真我(真の私たちそのもの)である存在である「I AM」が先生の肉体を媒介として語られる内容は
一貫して“「本当の私」であること”、に尽きると思われる
では「本当の私」でないもの、偽我とは
ラマナ・マハリシは光が在るとき、そこに闇はない、と言われる
光という真の私で在るとき、何処に闇があるだろうか
だから闇は無いのであるから、光である私自身に焦点を向けよと
たとえば家に帰ってきて部屋のスイッチをつけた途端、部屋の中は明るくなり、闇は無い、
と言うよりも
最初から闇はなかったのである
ただスイッチを入れていなかった、というだけである
スイッチが入り明かりがついたとき、光だけがあり、そこにはもともと闇など無かったのである
だから存在しない闇という分離性に惑わされることなく
眼を光である「真の私」に真の自分自身に向けよ、と言う
ではそのスイッチを入れるとは何だろうか
部屋に明かりがついていない状態とは何だろうか
光とは勿論、真我という真の私、であることであろう
部屋に明かりがついていない状態とは、
覚者達はこのように言われる
自分でない私を私と錯覚すること
本来存在していないものをあると思うこと
だから
その眼を逆転して、自分自身に向けなさいと
現在私達は眼が外に向いているために
自分でないものを自分と勘違いしている、のだと
ではその自分ではないものとは一体何か
それは、それこそが、その夢である錯覚の本質である「分離性」「二元性」「個別性」である
この「分離性」「二元性」「個別性」こそが
見る主体と見られる客体という間違った、本来存在しない二元・区別・分離を生み出した
本当は「外部」は「内部」であるのに、それを条件付けのために、見ることが出来ず
内部と外部に分けてしまった
主体と客体が分離してあると錯覚してしまった
即ち
私たちは条件付けられてしまった結果、分離・二元が存在すると信じてしまった
この錯覚は、まず
知覚という五感が歪められ、そして錯覚してしまった
そしてその結果
私達には、この「特定の肉体(肉体だけではない)」での知覚情報しか知覚できず、
その感覚と知覚から「自分の肉体(肉体だけではない)」と思わされてしまった
感覚と知覚から他人は自分とは別だと思わされてしまった
それは、この五感という知覚が、そのように分離をもたらしたのだ
即ち
それらの情報を受け取り発信する頭脳(肉体の頭脳だけではない)が、同じように条件付けられて、しまっているため、
そのように分離と二元性しか知覚し認識し、体験出来なくなった
そして
現段階の条件付けられているこの頭脳(肉体の頭脳だけではない)では、
この肉体(肉体だけではない)が私たちの真我の媒体としては、
働かないようにブレーキがかけられてしまっている、のではないだろうか
ある方のように、また
多くの覚者のように真我の媒体である「肉体(肉体だけではない)・頭脳(肉体の頭脳だけではない)」
であることができるためには、
そのような媒体である条件付けが外された肉体(肉体だけではない)である必要があり、
その為には真我からの働きかけによる頭脳(肉体の頭脳だけではない)の変革が求められる、と思う
これは、いわゆる「どこかからの」ディクシャではなく、
真正の、真の私からの、真我からの本物である、本当のディクシャが必要とされる、
しかしこれは自分以外の外部からではない、かといって内部でもないと思われる
この外部や内部という区別こそ、
私ではないものである「分離性」「二元性」「個別性」というもの、そのものであり
自分のレベルがこの枠内に有る限り、この本当のディクシャは行われないと思う
ディクシャは外部からではない、
ディクシャは自分以外からではない、真我以外からではない
ディクシャは外部からやってくるものではない
ディクシャは内部と外部の区別を超越したところからやってくる
最初から在るものから、本当の私から、それはやってくるのであり、
自分以外の・・からと誤解してはいけない
この私の、この条件付けを、解く真のディクシャは
スイッチである「眼を内側に」、「眼を真の私に」注ぐというワーク、
このワークの実践の中に自然に起こる事であり
これを管理している真我によって行われる
この管理はチャクラやクンダリーニも然りである
で、そのタイミングと実施は、完全なる真我によって、自動的に絶妙なるタイミングで行われるのであり
人為的ではない、
私たちがお互いにすることなどではない
これは真我から為されるのであり、自他が分離していると錯覚している私たちによって行われることではない
では、ディクシャによって、この条件付けが外された状態とはなにか
この条件付けられた知覚ではない、本来の知覚とは何か
それは
非分離性、非二元性、全体性であると思う
この非二元性というものをさらに詳しく述べると
クリシュナムルティーのように
「見るものは見られるものである」
「観察者は観察されるものである」
「知覚者は知覚されるおのである」
「体験者は体験されるものである」
「経験者は経験されるものである」
「記憶者は記憶されるものである」
などのように叙述される
そしてさらに、この状態は角度を変えると
主体と客体という二元性はともに、虚偽であるということ
本当にはこれらの二元性は存在していない、
ということである
これは
非二元性、非分離性、全体性である、ところの本当の私たちが在るとき
これらの
主体と客体という分離そのものが幻想であるということを、
これらの言葉は直指している
では「見るものは見られるものである」とは一体何なのか
それは
見る主体と見られる客体・対象は同じである、ということの
非分離性を述べている
であるので
この見る主体と見られる客体という二元性こそ幻想そのものであり
内部と外部の分離こそ、
この分離そのものが虚偽であること
この二元性という外部と内部に分離しているという錯覚を見ること
ハッキリと理解することこそ
「虚偽を虚偽と見る」「虚偽の中に真理を見る」「真理を真理と見る」
ことであり、この分離というもの、この二元性という虚偽を見ていることこそ非二元性であると思う
であるので本当は
ニサルガダッタ・マハラジの言うように
「外部は内部であり、内部は外部である」ということ
これは、即ちクリシュナムルティーの「見るものは見られるものである」と全く同じ
この二元性、自分と世界、内面と外面、自分と神、自分と他人、自分と宇宙、自分とアセッションなどの
内部と外部の分離そのものが
最大の条件付けであり、これこそが夢であり、幻想であり、錯覚であるということ
従って
この夢である、錯覚の分離ではなく、真実とは
非分離性・非二元性・全体性である状態である
それは「外部は内部であり、内部は外部である」「「見るものは見られるものである」ということで有ると思われる
それらの覚者の言葉は
まさしく非二元性、非分離性、全体性から述べておられる言葉であり
この状態こそ
まさしく真の私たち、真我からであると思われます
このときこの知覚される現象界という
自他の分離は姿を消し、
元々はじめから存在していない光が灯されていない状態、この二元性
夢であり、幻であり、錯覚であり、幻想であった、私・自我(エゴ)ははじめから存在しなかった
という事が開示されると思います
真我という実相は
自他の分離のない状態、ワンネスの状態、光一元、愛一元の状態、
「全体は我であり、我は全体である」状態
一命一体である状態
そしてこの状態こそが
いわゆる非分離性・非二元性・全体性であり
この状態を
自我のマインドの関与を許さない
もっとも正しい言葉で表現されたものこそ
「見るものは見られるものである」
「外部は内部であり、内部は外部である」だと
わたしには思われます