絶対安心
絶対に安心することとは一体何だろうか
ラメッシの言うように、
思考も起きていることであり、思考する人も起きていることであり、行為も起きていることであり、行為する人も起きて
いることであり
出来事も起きており、運命も起きており、カルマも起きており、
従って私も他人も起きていることであるのなら
良い事をする人もなく、悪いことをする人もなく、良い人も悪い人もない
なおかつその善悪なるものを知覚することも、その知覚という体験ということすらも起きている事であり、
ただただ起きていることに過ぎないとしたら、
そしてそのことを直に認知しているそこの境地におれば
そこには絶対安心しかないのではないだろうか
絶対に安心だ。自己とは存在しないからだ
それと同時に真の私は起きていることによっては触れられることはないからである
何故なら、「ラメッシの言う真実」は、私と言う自我は本当はいないということであるからである、
本当は自我はいないのであるということだ
この事実を逆側から考えれば
この「真実」である「いま・ここ・あるがまま・真の私」がマインドや自我や時間や「主観的な空間(即ち物理的という空間)」
というものによって守護されていることではないか
「今・此処・あるがまま・真の私」は完璧に完全に聖なる催眠によって守られていることになる
ではそれはどこにか?
それは「今・此処・あるがまま」として思考や対象という二元を超えて存在しているのだと言われる
ラメッシの言われるように出来事も、行為も行為者も、思考も思考者もただ起きている事であるなら
果たして一体何処にこの行為している私、考えている私、努力している私、瞑想している「私」というものなどがいるので
あろうか
この行為している私も、考えている私も、努力している私も、瞑想している私も、ただただ起きている事に過ぎないので
あるなら
一体何処に私とはいるのであろうか、「私」が何処に存在しているのであろうか、そこには質料だけが有るので
はないか
実は物質や質料が思考・マインドとしてあるだけで、私という自我は存在していないのではないか
なので私とはそもそも何処にもいないのではないだろうか、物質という質料が空間に漂っているだけだ
自我という意識存在の正体はただ物質の固まりであり、その空間を占めている物質・質料の意識に他ならない
質料と物質の意識が私という自己だとしたら、その私なる意識存在は、その粗い若しくは精妙なる組織体若しくは質料に
関わらずに、その質料・物質の崩壊と一緒にその自己意識も消滅するに違いない
私という自己意識を持っている質料が物質だけではなく、もっと霊妙なる質料で複層的にコーシャ・鞘として構成されている
ために自己意識が幽界や霊界をまたいで持続しているに過ぎない、
それらは全てが単なる質料の意識であるに過ぎず、その霊妙なる質料・記憶が消滅したときにその自己意識も消滅する
のではないだろうか、ただその記憶の糸が繋がっていると言うことで輪廻の鎖が続いているように見えるだけではないか
結局は結論として
私という自己意識は粗雑又は精妙なる物質又は質料が組成した結果として生じている分離意識であるに過ぎないので
はないか
そしてその物質なり質料は或る法則性やプログラムにしたがってその通りに生起していることに過ぎないとしたら
私・自我とは何もしていないと言える、そもそも私・自我の基盤がないからである
最初に戻って、この私自己は何もしていないとしたら、そしてその行為していると思っているこの私とは関係なく行為と、
行為する人が起きているとしたら
ああだこうだと考えたり、悩んだり、経験したり、苦しんだりしている私も、その考えることも、その悩んだり、努力したり
経験したり、苦しんだり、願ったり、振り回されたりしている出来事も、そしてその当事者である私もただただ
起きている事であるなら
私・自我・自己は
何も出来ないのではないか
何をもすることもないのではないか
何をもしておらないのではないか
何かに向かうこともなく何かから離れることもない
何かに向かっていることもなく、何かから離れたりすることもない
当の主体である私という意識・思考が起きている事なのである以上は何かをすることの余地はなく、何も出来ないからであり
何にも関与していないからである
行為している、思考していると思っている行為者であり思考者であるこの私とは思考にも行為にも関与していないということだ
即ち「無為」である、何も為さないのではなく何も為していないのである
ただ「無為」であり、この無為の中には私はいない
私がいないのだから絶対安心である、とそういうことになる
何故なら既に「今・此処・あるがまま・真の私」はマーヤや虚偽によって守護されているからである
完璧なるマーヤである時間と空間という強固なマトリックスによって守護され
自我という錯覚によって守られている
そういうことであるから自我としては
何もしておらず、
何もしていなければ
何もすることもなく
何かをすることは出来ない
何かに成ることもなく、何かに到ることもない
そもそもこの行為者であり思考者であり、経験者であり観察者である自我そのものが
起きている事であるからであるということになる
全ては起きている、
全てはやってきて、そして去る
そこには最早私というものは何処にもいないのではないだろうか、
という境地に至りたいものである
ただただ聖なる出来事の全てが起きており「私なるもの」は結果として現れ消えていく
出来事の一つであるに過ぎない
ということであろうか
真の私はいまここに在る
去来する者は私ではない
とのニサルガダッタ・マハラジの弟子のラメッシの境地が偲ばれる