花は必ず咲く
私は以下のように類推している(信じている)
いつかは花は必ず咲く、どの花も、どの蕾も必ず咲く、開花する
花が頑張ったからではない、花が咲こうとして努力したからではない、蕾が花開くのは自然であり運命でありプログラムだからである
またどの花も美しい、薔薇が桜より美しい、などと競うこともない、全ての花はそれぞれが美しい、その花はその花で最高に美しい、それがそのはなの特色である
花が開くのはそれがその花の運命であるからである、それが自然法為である
それなのにその花が一生懸命努力して「隣の花より早く咲こう」などと思ったり、自分の力で咲くのだなどと思わなくても、時期が来れば自然に開花する
花とは私たちの自我(エゴ)のことである
大地に蒔かれた種は、樹となりそして実を結び、開花する、そして花が開いたら、落下して又大地に戻る、これがプロセス、プログラムである
大地に戻るとは、花が来たった大元である根源の私に戻ることである
私が本来の私に戻ること、個々の魂が、幾多の輪廻を繰り返して成長して、成就し、本来の出てきたところである根源の私に戻ることである
個々の魂が本来の大地である全体の私、一つの私に消えることである、それが大地に戻ることであり、このマインドがマインドが生まれてきた宇宙の意識である「気づき」に戻ることである、そしてその為にはこの花は開花して落下し、そしてこの本来の宇宙意識である「気づき」に戻るのである
花とは大地である意識そのもの、全体そのもの、「見るものは見られるものである」の意識である気づきから生まれてきた、
この私という自我(エゴ)が成長して幹となり、そして花が開くまで、悲しみの幾多の人生を繰り返すことだろうが、それは最終的には「見るものは見られるものである」ということを理解して、実を結び花開き、そして大地である「私」に戻る
これは運命であり、プログラムであり、プロセスなのだ、いくら早く咲こうとしたり、頑張ったところでどうすることも出来ない
開花は運命なのだ、そうなるのであり、これが自然法為なのだ、何かをしたからではない、開花をするようになっているのだ
花とは自我(エゴ)でありサイコノエティック体でもある、幾多の生を重ねて、学び、そして蓄積したものが成果となり最後は戻るのだ、中空の竹となって
私達は頭脳に縛られている、有機体の死後もこの精妙体の頭脳に縛られている
それは丁度、幽体離脱をして自分の肉体を外側から見ているところの自分こそが、自分の精妙体の頭脳に縛られているサイコノエティック体であり自我(エゴ)であるように
私たちのサイコノエティック体と呼ばれている「記憶と各人生の成果の結晶」でもある自我(エゴ)は成長し波動が高まるように成長させられていく
注意点はここであり大切なところだ、各成果を携えて成長していく自我(エゴ)であるサイコノエティック体が、経験を積み成長させられていくのであって、「根源の自分」というものが成長するのではない
これに関して詳しく説明すると、
自分の自我(エゴ)の力で成長していくのではなくて、恩寵というプログラムにしたがって、自動的に自然に成長していき
そしてこの自我(エゴ)の自分の波動がより高度になり、より精妙になったとき(より高度になるよう、より精妙になるようプログラムが発動し、そうなったとき)
自然に恩寵として、受信器であり発信器であるこの頭脳も変革を起こし、本来の私である私と繋がるほどこの頭脳の条件付けが、現在のサイコノエティック体の成長過程のその段階に応じて解除される
そしてその結果、頭脳はより精妙となり、「真のわたしからの波動」を「これに近づいた波動になった自我(エゴ)」に伝えることが出来るようになる
この際の頭脳とはあくまで受信器であり、送信機であるに過ぎない、頭脳が意識の座ではない、意識の座が頭脳に重なって有るだけだ
私たちは死後に於いても、より精妙な頭脳に縛られている、この意識の座は頭脳と繋がっているのだ
この頭脳が受信したものを受け取るのだ
そして此処でも同調の法則が働いている
現在の自我(エゴ)の波動と同じ波動の周波数のものを頭脳を通じて、意識の座を覆っているサイコノエティック体が受け取るのだ、
しかしその受け取っている自我(サイコノエティック体)とは真の私を覆っているものである
真の私であり、空であり、磨かれた鏡である真の意識を覆っているもの(自我(サイコノエティック体))が自然にプログラムによって開花するときが来たとき、
そのとき頭脳は条件付けを解かれ真我を受信できるように精妙になり、静かになり、雑音を出さなくなり、
沈黙を受け入れるほどにレベルアップする
それを受容できるほどに三体も調整され、かつ自我(エゴ)自身が自我(エゴ)自身を知り尽くすほどに静かに、なるという
そのときに真の私の波動は、ハートから頭脳を経由して受信され自我(エゴ)にその光はやってくる、
そしてこの「愛の見る」というその「正見」によって、偽りのわたしである自我(エゴ)の正体が愛の中で完全に暴露され始める
魂の光が輝き始めるとき、付着しているゴミは、どんなに小さくとも、よりハッキリと鮮明に見えてくる
しかし、このゴミを見ているものは、そこには最早いない、それを見ているものは見ているものと分離の無い「神の目」であるところの
「見るものは見られるものである」という愛の目で、そのゴミを見ているのだ、私自身として
愛の中で、喜びの中で、そのゴミも汚れも愛という目、分離していない目でもって浄化され始める
その見られている魂の付着物が、「見るものは見られるものである」の目で見られるとき、この神の目、愛そのものの眼は
自分自身として見ている、何も分離していない、その付着物でさえ、このとき光に変わる
愛の光の目で見るとき、分離のない愛の目は、全てを愛に変えてしまう、
このとき見られるものは、全てが変容し、愛それ自身に変わる最大の奇跡が起こる、喜びと共に
このようにして
真の私は条件付けから解放された頭脳を経由して
「見る」ということによって、完全に自我(エゴ)を消滅させてしまい、完全開花させる、そして開花したものは落下する
これは受容であり、恩寵である
また歓喜であり、平安であり、沈黙であり、成就である
そして
そのときの、意識の座を覆っていたものである自我(エゴ)が全くなくなったとき、条件付けから解放された頭脳が受信しているものとは、実は初めから此処に今あったところの、真の私・真我そのものであったことが感得される
分離していた壁が取り払われたとき、内部は外部であり、外は中であり、全ては初めから一つであったことが明らかにされる
やってきた宇宙意識である真我は実は内部でもあり、この真我を覆っていたところの錯覚が払われ、成就し落下したとき
直列する、そしてその直列するものとは真我、条件付けから解放された頭脳、そして自我(エゴ)が脱落した三つの身体である
これを称して中空の竹になること、否、中空の竹が訪れたたことと言う
身体が愛の伝導体へと変わった瞬間である
これらは全てが自動的であり、ここでは私という自我(エゴ)は介在することはできない、このプロセスは自動的に起こる
必ず起こるようにして起こる
だから何もすることは出来ない、その何かを為さんとするものこそが自我(エゴ)であり
その何かをなさんとする自我(エゴ)さえも実はプロセスであり、プログラムされているものである
開花には晴れる日もあり、雨の日もある、そして多くのことが経験されるだろうが、それらは全てがプログラムでありやってきているのだ
何一つ、花自身で起こしたものはないのだ
全ては起きている、開花もそして落下である成就も
花は自ずと開花する時節が来たら開花する
花自体が早く開花しようとか焦ってもそれは開花しない
その開花をなんとか早めようとするものこそが自我というマインドである
そして花自体もそれを早くしようと思っていた自我も落下する
開花したものは落下するのだ
しかし
私はその花ではない
私とはその花を咲かせているところの、真の私であり大地である
真の私には、何も起こっていないともいえる
この開花という事が起きている現象世界とは全て映像である
種が蒔かれたことも、そしてその種が生長し、幹となり花が開花したことも、そして大地に戻ったことも
これらはプログラムでありプロセスでありそして映像である
私とはこの映像ではない
私とはこの映像を映しているスクリーンであり
この映像を観照しているものである
と、そのように覚者によっていわれているのだ
そして私は、これを確信し信じている