マトリックスをマトリックスと見ることが解放をもたらす





半田広宣さんのヌース理論を見たが、素晴らしい内容だと思った
(同じように津留晃一さんのホームページを見て深く感激した)

この中で半田さんが説明している「次元観察子」というものに何か非常に重要なキーポイントを感じた

即ち、この次元よりも一段階高い次元というのは
この次元から無限遠点(超越しているという意味合いで)にある「次元観察子」そのものである
というものであった

これはクリシュナムルティーやラマナ・マハリシ方の常に言っていること
「見るものは見られるものである」ことを見ている、ところの「見」のことであり
「見るもの」や「見られるもの」ではないと言うことである
(この私達の分離性の範疇での主体や客体ではないということ)

即ち、見るものと見られるものという、この主客分離構造(二元構造)という次元を全体的に見ていることが
(「見るものは見られるものである」という状態が)この分離ではない次元のものであると言うこと

そして、来たるべきアセッション後の地球とは、この次元に立つてこそであり、この上位次元こそが次の地球の文明が築かれる土台であること

ハッキリと言うとこの次の地球の次元は、この現在の地球の次元である分離二元の次元から
無限遠点である一段上の次元観察子の上に築かれていくと言うことである。

分かり易く言うと
虚偽を虚偽と見ることが、この見ている状態がそのままに、この虚偽であるものから無限に遠点であるもの、即ち真理であるという
とそういうことではないかと推測される。

そう言う訳なのでクリシュナムルティーの言う
虚偽を虚偽と見ていることの状態がそのまま、その観察子の次元であり、それが虚偽の止揚された真理であると言うことであるのではないか

そう言うことであるので
覚者方は
マトリックスをマトリックスと見ることが解放をもたらし
この虚偽を虚偽を見ることの中にのみ真理は有る
ということを言っているのであると思う

ではこのマトリックス(見ものと見られるものが分離しているように見られていること)とは何か
このマトリックスの本体とは何か
それは
思考であり、記憶であり
マインドであり
そして
この思考の本性であるところの時間であり、空間であり
分離した思考の精髄である知識や知性や理性である

この理性や知性や知識が抽象や具象を形作り
哲学や概念や智の殿堂を作り上げた
そしてこの文化と文明を築き上げた。


それを支えているものが二元性であり分離そのもののマインド・思考であり
そのマインドの知覚であるところの自他の分離である。

これこそが、知るものと知られることとのの分離、即ち、人類を厚く覆っているマインドであり、知識であり、知ることの中身である

だから知識の更なる内奥は記憶である、記憶という分離の蓄積である

これを逆順に追ってみると
この分離の根源であるマインドから、記憶が生まれた
そしてこの記憶が集積して知識が生まれた

そしてこの知識が集まったものが、現在の文明であり
この文明そのものの根幹がマトリックスであると言うことである。

ではこの現在の文明の根幹がマトリックスという根本錯覚から成り立っているとして

その根本的なマトリックスとは何だろうか
(勿論私は、悟っていないので以下は推論である)

■自分は既に全体であり完全完璧であるのに、これから進歩し、改良され、輪廻転生して、更に完璧に、良くなり、最後は神に至るだろうと思っている錯覚・マトリックス。

(本当は、自分とは存在していないのに《この知覚している私とは単なる記憶でしかない、存在している私とは全体的魂であり、この記憶ではない》この記憶の自分が肉体と自己同一視して、存在していると錯覚し、この錯覚というマトリックスによって突き動かされた結果、覚醒しよう、真我に至ろうとして色々と実践し、ワークしたりするのである)


■世界は自分が投影しているのに、自分以外に世界が外部に有り、世界を自分とは別の救済すべき対象と思ったりするマトリックス
(現在の○○○グループの行っている世界救済のための運動は、世界は救われなければならないと錯覚しているマトリックスから生じている活動であるために、かえって世界に混乱を招来している。そして、そのマトリックスを広めている結果となっているのである。このマトリックスを解消することがこの現象界の真の救済である)

■宇宙や世界は、既に完全完璧であるにも拘わらず、より世界を素晴らしくし、良くしよう、改良しようとするマトリックス。改良し、改善しようとすること自体が、それは完全完璧ではないと錯覚しているマトリックスであることを証明している
(ラマナ・マハリシはそのような世界の改良や救済は、世界や宇宙が客体として実在していると錯覚している「方」にお任せしなさいと言っている。この救済とはマトリックスを打破することである)

■自分は個人ではなく全体であり、既に到達しているのに、真我に至ろうと努力したり瞑想したりする錯覚・マトリックス。
至ろう、実現しようと努力すればするほど、
知ろうして知識をかき集めれば集めるほど、いくら集めたとしても、この知識そのものが思考の範疇内のことであるので、結局は自他の分離のマインドのマトリックスに嵌ってしまう。

■他人は存在せず、私も存在せず、ただ一者である魂しか存在しないのに、他者とは別々の自己があり、自分とは別の存在である他人が存在していると信じているマトリックス。

(真実の私は完全完璧である、そして他者も同じように完全完璧である。そしてこの両者は実は一つの魂であり一体であるにも拘わらず、
焦点化された肉体を自分と信じ込み、「私を肉体だ、肉体が自己だと錯覚したマインド」という二元性・分離性によって、この魂の焦点が覆われてしまい、記憶という個別性が発生し、自我(エゴ)が生まれ、その結果この記憶が継続を懇願し、結果、輪廻転生が始まり
個人・人格という思考や記憶・知識によってすっかり魂が覆われてしまったのである。
それが特定の個人・人格がこの有機体と他の有機体の中に発生したということなのである。
それがこの分離している個人としてのサイコノエティック体・コーザル体であり、他者としてのサイコノエティック体・コーザル体である)と思われる。


■この私と言う個人や他者の個人・人格は、魂でもなく、肉体と同一視した、魂ではないマインドであり、
個人とは、このマインドが頭脳を経由して積み重ねた記憶であるに過ぎず、この所謂、自我(エゴ)という記憶の塊は、魂で有る私ではなく、プログラムに従って、やってきてこの魂に取り憑いた思考であるに過ぎない。
そしてこの思考でありこの意識の座を覆っているマインドを(肉体を私と錯覚したマインド)が、
この肉体独自に与えられている特定の行為と思考のプログラム・運命・出来事であるのに
ここの肉体と頭脳に起きている思考や感情などを、私(自我(エゴ))が行為している、私(自我(エゴ))が生きていると錯覚しているのだ。
これが最大のマトリックスである、のではないだろうか。
真の私である普遍なる全体の魂は、この頭脳と身体が行為したり、思考したり、
ここの内部と外部に起こっているマインドや出来事・運命・カルマを観照している真の絶対主体である。

この錯覚している自我(エゴ)とは記憶の塊であり、行為して、自由意志が有ると錯覚しているけど、
実際に行為して、出来事をもたらしているのはプログラムであり、
このプログラムは魂の根源が与えたのだと思う。

だから勿論のこと、魂は、プログラムそのものではないので、本当に自由であり、何でも出来るのであるが、
現時点での自由と言うことと「何でも出来る」と言うことは、低レベルの私たちにとっては直ぐに自我(エゴ)の思考の範疇内のことになってしまうので、正しく理解することは難しい
現在のこのサイコノエティック体の状態の私たちでは、この自由と、「何でも出来る」と言うことは、実際には全く意味を成さない言葉でもある。実際にこの自由であるためには、虚偽を虚偽と見て真理が開眼していなければならないからである。

■覚醒しようとすること、何かが起こると願い、期待していること、
到達しようとしていること、
究極を体験しよう、光明を得ようとすること、
真我を認識しよう、知ろう、分かろうとし、掴もうとしていることが、
それらを願い行っているものの状態を更に強化し確立してしまう、
その覚醒を願うことそれ自体が、同時にその覚醒とは正反対である所のものであるもの、即ちマトリックスというものであり
それを動機しているものこそがマインドである時間と分離性、自我(エゴ)の錯覚であることを証明している。
魂である私は、すでにそこに到っているので、決して、究極に至ろうとしたり、知ろうとしたり、体験しようとしたり、解脱しようとしたりはしない。
何故なら真の私である魂は、既に究極であり、既に完全であり、既に愛であり、既に全体であるからである、と。言われている。


■全体である私は、知識や知性や理性や認識や体験や記憶といったこの二元性の次元でのみ作用している錯覚を超えており、この錯覚・マトリックスを支えているマインドの属性であるそれらの道具でもって、より高次の次元である「気づき」や「意識」、非二元性の完全完璧を知ろうとする欲望、これこそがマトリックスの欲望である。
上位次元のものはこれらの知ることや記憶や体験や認識といったものでは、決して至ることは出来ない。
それはこの次元を完全に理解することの中で、この次元を超越することが出来るのである。それがかの次元観察子である。


ここでクリシュナムルティーが何故、あのインドの聖女であったマザーテレサを祝福しなかったのかの理由が判明してくる。
愛に溢れて、貧しい人々を、微塵も我欲を挟むことなく、救済し続けたマザーテレサが見ていた、その貧しい人とは誰か、誰なのか?
彼女が見ていた救うべき他者とは、その見られていた他者とは誰か?
それは彼女自身の投影ではないだろうか?
その他者とは自分を映している鏡だったのではないだろうか?
この不完全で、醜悪で、分離している世界とは私が投影しているのではないだろうか?

ではこの、それらを投影しているところの「私」とは誰か?
それこそこの投影している私とは、最大のマトリックスである「無明・無知」ではないだろうか。

それが「無明」「私と言う第一想念」ではないだろうか。

そしてラマナ・マハリシの言われているように、この「私と言う第一想念」、
世界と自己と他者を投影している「第一想念」を実際に看破したとき、
それは存在していなかったのだ、と言われている
この場合のこれを看破している次元観察子とは、
この分離の次元のすべてを完全に観察している次元観察子なので、

正直に言って、この現在の私にとっては単なる知識の受け売りに過ぎない言葉でしかないが、
ともかくラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジはそのように明言されているのである。

そう言うわけで、そのラマナ・マハリシの次元に至ってから始めて、言える言葉が「実は何も起きていない」「宇宙の出現も消滅も私の中で起きている」という言明となるのではないか

つくづく思うのであるが
マインドは何も知らない、
知識は何も知らないのだ、
理性や知性や知ることが、単なる記憶の反応に過ぎないため、それはあくまで、「非常に限定され、条件付けられた錯少した頭脳」を経由した結果であり、
その記憶が起こしている知識や知ることでは、全く以て、この全体性であり、非分離性である「真我の智惠」を測ることも、想像することも出来ない。
この知識にとっては、それは未知なるものである。


時間と空間を超え、
自と他の分離を超え、
抽象と具象を超え、
知ることと知識を超え、
感覚と知覚を超え、
過去と未来の区別無くして、
すべての生物と無生物、人類の過去現在未来だけではなく、あらゆる真実を一瞬にしかも同時に認識する、その真の智惠はこの条件付けられた頭脳を介した思考では想像すらすることが出来ない。







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