既に開花しているという真我という花はどのように開花していくのであろうか
私は花が開いていくプロセスを次のように観念している
段階@
マインドがマインドに気づいていない状態(マインドが働いている状態)
・マインドが誤って諸身体と同一視した結果、自分は肉体ではなく高級な魂であると思い込み、その想いが結晶化した
自分という魂なる永遠不滅な実体があって、長い時間をかけて輪廻し、進化し、覚醒し、成就する個体・個人と考えている状態
・マインドが頭脳を経由して「知覚と認識と行為の主体」である私・個人を創り出しているのもかかわらず、それを真の私に至る
魂だと思っている状態(実現はない、実現しているものが最初から在りそれが真の私であるから)
・そのマインドの個人が、自身が対象として知覚している世界を投影しているのに、その現象界・意識界を自分以外の実在と錯覚
して見ている状態、
・このマインドの個人とは、根源がマインドを使って投影している「映像」にすぎないのに、分離し個別の自己が自由意志を持って、
行為していると錯覚し、
・結果でしかないマインドが作り出した自己が、この自身という自己を良くしようと努力したり、神と合一しようとしたり、世界を良くしよう、
進歩させよう、理想世界を実現しよう等との想いに捕らわれている状態
(しかしそのマインドも神の道具であり、そのマインドという私も真我からわき起こってきたものであると言われている)
↓
段階A
マインドがマインドであることを意識している状態(高等思考が働いている状態)
・この私の知覚とは、真の私の知覚ではなく(気づきという無思考である真の私の知覚ではなく)、マインドにものに過ぎないことに
気がついている状態
(しかし、このマインドも、この錯覚であるところの知覚も、「無思考である意識」という気づきがるので成立していること)
・この自己である個人、即ち転生を続けて進歩し、成長し、最終的には神に至ると思われている「私」とは
実際にはマインドが頭脳を通じて作り上げた記憶の塊であり、決して「真の私」ではなく、即ちそれは気づきという意識の私でもなく、
想念であるマインドに過ぎないことにハッキリと気づいている状態(高等思考が働いている状態)
・またこの私が思うこと、欲すること、願うこと、行うこと、感じることも真の私のそれではなく、それはただ単に根源からこの現象界の
一部として起きていることに過ぎないことに気づいている状態
※ここからBへの移行は決意が必要である、又は真のワークが必要とされる、
起こることの全てはマインドである私が行うのではなく根源が行為していること、この根源に対する受容や自己放棄さえも起きている
ことの結果であること、を認識すること
真の私とは、その起こっていることでもないし、その起きていることを自分の行為や対象と錯覚しているマインドでもない
ラマナ・マハリシのいうように「真我は到達されない、私は真我である、既にそれなのだ。」
「私たちは自分で無限の存在であるのに、限界を押しつけ、それから自分は限定された創造物だと嘆くのである。
そしてありもしない限定を超越するために、あれやこれやといった霊的修練を始めるのだ。
だが、この修練そのものが限定された存在を仮定したものなら、どうしてそれが限定を超越する助けになるのか、
私たちは既に純粋な存在であり、真我なので実現しているのだ。」
「私は実現していない」という観念を追い払うだけだ、この観念が障害であり、想像だ。
というワークが求められるのだ
そして、この第1想念がこの高等思考によって気づかれるとき、
意識が目覚めて、マインドが脱落し始める
意識である気づきが開花することによってBへと移行する、ことが起こる
(ここからはマインドは介在できない)
↓
段階B(ここからは未知なるもの)
意識がマインドを見ている、又はマインドを意識が見ている状態(マインドが消滅している状態)
(※ここから先はこの久保栄治にとっては全く未知なる領域である)
・意識又は気づきとは非分離性であり「見るものは見られるものである」の非二元性の状態であるから
この非二元性の意識又は非分離性の「目」が「見る」対象とは客体でもなく主体でもない
・見るものと見られるものという二元対立は此処で終焉する、マインドは此処には存在できない、従ってマインドが
創り出した個人や人格や他人や世界も存在できない。真実の全体が一つである、あるがままがあるがままに在る
・このとき、この「見る」なかで大いなる奇跡が起こり(気づきによってマインドがそれ自身として、即ち非分離性・非二元性の
なかで見られている中で、マインドという分離性、自己という幻は消滅する、自我は終焉する、対象である世界も終焉する。
・そこには愛のみであり、完全で、完璧で、この愛のみの中で全ては一つで在ったことが、分離していなかったことが、
私は貴方であったことが証明される。
・ここにおいてラマナ・マハリシのいう「非実在と言ったものは存在せず、ただ真我だけが存在している。もし貴方が世界とその
他の全ての知覚の基盤である自我(エゴ)の源をたどれば、自我(エゴ)は全く存在しないこと、あなたが見ているこの創造され
た世界もまた存在していないことを見いだすであろう。」が実証される。
↓
段階C
この気づきという意識の中に「存在」という非顕現が顕現している状態(マインドは絶滅し、気づきの意識である状態の中に)
この愛という非二元性・非分離性・全体性の気づきの意識の中に、
名付けられないもの、全く思考では想像も出来ないもの、
完全完璧、愛そのものであるもの、根源、
これなくしては全ての意識も思考もマインドも時間も空間も宇宙も、あらゆる次元も一瞬たりとも成立できない「存在」が現れる
これこそ至高なるもの、根源であるもの、あの至高なる方々が父と表現したものである