言葉では接近できない
知識では接近できない
ニサルガダッタ・マハラジ:
「あなたが私のもとに来なければならない、言葉はマインドのものであり、マインドは覆い隠し、歪めてしまう。それゆえ、言葉を超えて私の元に来ることが絶対に必要なのだ。」
「私が、私があると言うときは、身体を核とした分離した実体という意味ではない。それは存在の全体性、意識の大洋、宇宙全体という意味だ。私には何一つ望むものがない、私が永遠の完成だから
脳を媒体にして、私と言う個人・人格の観念はマインドによって作られた、それは私ではない
質問:
あなたは他の人々の内なる人生に触れることが出来ますか
ニサルガダッタ・マハラジ:
私が人々なのだ
質問:
本質や実体における同一性、あるいは形態の類似という意味ではなく、実際に他者のマインドやハートに中に入って、彼らの個人的体験に加わることが出来るかということです(略)
ニサルガダッタ・マハラジ:
全ての存在は私の中にある。しかし、脳の内容を別の脳に引き入れることは。特別な訓練が必要だ。訓練を通じて達成できないことは何もない
現在の意識は偽我たるマインドそのものだ、この意識は真我ではない
質問:
どの面から見ても、欲望とその傾向からの自由が真我実現の第一条件だというお話しだと思いますが、この条件を満たすのは不可能に見えます。自己の無知は欲望をおこし、欲望が無知を永続させます。本当に悪循環です
ニサルガダッタ・マハラジ:
満たさなければならない条件などない。するべき事もなければ、あきらめることもない。ただ見て、そして覚えて起きなさい。何であれあなたが知覚するものは、あなたでも、あなたのものでもないのだ。それは意識の領域内にある。だが、あなたは領域でも、その内容でも、領域を知るものでさえない。何かをしなければならない観念が、努力の結果のなかへとあなたを巻き込むのだ。動機、欲望、目標達成の失敗、挫折感……これら全てがあなたを引き留める。何が起ころうとも、ただ見守りなさい。そしてあなたはそれを超えて在る、と言うことを知りなさい。
質問:
それは知られるものと知るものがひとつになるという問題でしょうか
ニサルガダッタ・マハラジ:
どちらもマインドの中の観念であり、それを表現する言葉だ。それらの中に真我はない。真我はその合間にも、彼方にもない。精神的レベルの中に真我を探し求めることは不毛なことだ。探求を止めなさい。そして見なさい。それは今ここにある、あなたも承知のように。それは「私は在る」なのだ。あなたがすべき事は、自分自身を意識の領域内に在るものと見なすことを止めることだけだ。(途中略)
質問:
私の知識は限られ、力は取るに足らないものです
ニサルガダッタ・マハラジ:
自己は知識と力の両方の源であり、またそれらを超えている。観察可能なものはマインドの中にある。自己の本性は純粋な気づき、純粋な観照であり、知識の存在や不在に影響されることはない。