見ること、見られるもの、見るものは同一の課程であるとおもう

見られるものは外部からやってきた、
私として、
マインドとして、
感情として、
気分として、
想念として、
思考として
それらが更に
記憶と条件付けに基づいて作り出した、多くの私の人格として……

そして

それは内部になった

そして

それは主体となった。

それらが観照者を厚く被っているものであると思う
それが現在の私達の意識と無意識そのものだと思う
観照者の記憶はこの頭脳を元にした人格から作り出された記憶とは違うのではないか

2種類の記憶があるとおもう

人格たるワサナのマインドからの記憶と、観照者による観照者がみている記憶である
しかし
私たちの意識は、マインドに覆われて観照者は輝かない

従って
前世の記憶と称するものの殆どは
このワサナである想念構造体による記憶であり
真実の実在する観照者の記憶ではない
その真実の記憶に達するためには
私たちが
観照者にならなくてはならない

さて
現実問題として
私たちの内面である
意識はマインドに覆われている
そしてそのマインドが
逆に、
その主体として、その同じ構成物であるものを外部に投影して、外界を作り出した

これが私たちの認識している、世界
現象世界
この地球
そしてこの社会だ

この仕組みを維持している
マインドが
即ち、
見られるものを、

対象を作り出した

主体と客体の分離を生み出した

現在の私達の意識も、無意識も、そのマインドのカラクリから逃れられない、この分離した意識と無意識そのものこそ、そのマインドが生み出したのだ

見ているもの、見られるもの、見ることは同一のプロセスなのである

主体も、客体も、その分離も同一のプロセスである

これら全ての課程はマインドそのものである

マインドがそれらを分離した課程に思わせているに過ぎない

見ている内部も

見られている外部も

共にマインドが作り出したものだ

それは観照者に外部からやってきたマインドであると思う

この現在の私を支配しているところの、分離した意識と無意識はマインドである


頭脳という条件付けを通って
観照者の玉響に書かれたという設計図を通って

それらは

観照者を被ってしまった

だからこそ

「見るものは見られるものである」
「観察者は観察されるものである」
「経験者は経験されるものである」
「体験者は体験されるもの」


といえるのではないだろうか
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