上江洲義秀先生は私にこういった
「久保さん、神我の状態は、あなたには想像すら出来ません、現在のあなたには、思い馳せることすら出来ない、素晴らしい状態ですよ。全ては完全であり、完璧です」
よく、上江洲義秀先生のことを
「彼は神我への肯定的接近で、それは間違ったアプローチではないか」という人がいるが、私は、それは完全な誤解だと断言できる
彼は口を酸っぱくしていつも言っている
「肉体は私ではない」「偽我は神我ではない」と
「肉体と同一視してはいけない」
「偽我と同一視してはいけない」と
これこそ否定的接近そのものである
肯定的表現である
「あなたは神我ですよ」も
「我は神なり」も
「一命一体」も
全く同じ文脈で捉えられるのだ
肯定の裏に否定があるのだ
肯定を成立させるために否定が前提なのだ
その否定を強調するのがクリシュナムルティーであり
肯定を強調するのが上江洲義秀先生であるが
ともに
両者のそれは「それ」に接近するためであり
「それ」を強く示している
両者は同じなのだ
同じ「それ」から
発している
そもそも否定的接近とは、「それ」に接近する方法として、
即ち
「それ」を実現する方法として
「これ」を見ること、即ち真我でないものをみることで
「それ」が接近してくるということである
「それ」とは神我であり、全体性であり、非二元性であり、非分離性であり、愛であり、喜びであり、静寂であり、無である 、未知のものである、意識と無意識を超えた「存在」である
「これ」とは私であり、見るものと見られるもの、対象と主観、主体と客体の分離であり、この意識であり、この無意識である
即ちマインドが作り出した「私」である 。私にとって、この意識にとって既知のものである。
否定的接近とは
これらのマインドが作り出した、
私の中身であるものに
「気づく」課程で、
それらから離れ、
真の「我ー汝」が出現するというものである
これらの課程を
道元は
「仏道とは自分を見ることである」
「自分を見るとは、自分を忘れること」
即ち、
このマインドのカラクリを見て、私とはマインドが作り出した意識であることに気がつき
この意識の座から「自分という自己関心という」自我の働きが離れること
そして
「汝」が出現する
これを道元は「万法に証せらるる」といった
すなわちワンネスの状態である
このように
表現は違っていても
また方法は多少は違っていても
また山頂に昇る道が違っても
頂上は同じである
私達は途中に引っかかり、上江洲義秀先生のことをああでもないこうでもない、等と言ったりしている
上江洲義秀先生はハッキリ言って、頂上にいる 。
神我を実現したのだ
だからこそ
否定的接近もディクシャも述べない
彼には彼独自の道がある
彼がどういう方法で、私達を導くにせよ
私達にとっては
その真我への方法という考えそのものが
マインドが支配している証拠なのだ
その質問と、方法を尋ねているこの状態そのものがマインドなのだ
だから
方法はないのだ
マインドこそ「これ」であり
既知であり、これが「それ」を求めているのだ
実は「それ」を求めているのは、未知なる「それ」ではなく
マインドである「これ」なのだ
「これ」が「それ」になりたくて
方法を尋ね、求め、求道しているのだ。
「これ」は「それ」になれない
「これ」は存在しないのだ
はじめからないものが
どうしてなることが出来ようか
マインドは晴れるしかない
気づきによって
気づきが起こることによって
このマインドは離れるだろう
このマインドである意識も、無意識も離れるだろう
このマインドである見るものと見られるもの、主体と客体の分離も離れるだろう
それは気づきによる
気づきが起きることによる
そのために
マインドがマインドに気がつく必要が求められる
深く、鋭く、ハッキリと
マインドの自分のこのプロセスと、その中身を
習熟し熟知する必要があるとおもう
これを本当に熟知することが
これが
恩寵の訪れる
前提条件である、とおもう