私は悟ったは自己矛盾だ(偽我は真我ではない)
此処にアンマの言葉がある
「自分は悟りに達したと考えるとき、
最悪の事態が起きはじめるの。
ゆっくりとそっとエゴが忍び込んでくるのよ。 (中略)
あなたたちには、その境地(※悟りの)はまったくわからないの。
自分で悟ったと思い込んでいるだけで、
その思い込みにはまったく根拠がない。
自分がもう悟ったと思って決めてかかるサーダカは、
勘違いしているのよ。
あの境地には思いは存在しないから、
『自分は到達した』という思いさえ存在しなくなるの。
だからもし悟ったと思うならば、
それは、あなたの道を阻はばむもう一つの観念になる。
あなたは完全の状態には達していない、
真理はまだ遠くにあるのだから。
でもそれをあなたに納得させるためには、
あなたに真理を示すためには、
悟りを開いた霊性の師が必要なのよ。
師の恩寵は、絶対に不可欠」
このアンマの言葉は非常に有り難いです
道元禅師も云っているように悟りとは「身心脱落」であり
私が離れていくこと、私という自己が意識から脱落していくことであり
この「私というマインド」が、時間を経過して立派になって成長して何かになる、悟りを得る、という過程ではないと思います
悟りとは、自分というマインドが「悟り・気づき」に至るプロセスではありません
悟りとは「自分が悟る」ことではありません、自分が脱落することだと思われます
意識から、いままで覆っていた自己というマインドそのものが脱落して、本来の「気づき」が輝くことだとおもわれます
ですので「悟りを与える」「悟りのプロセス」という概念自体が自己矛盾しています
悟りとは、悟りを与えられる本人を前提にしていないのです
なぜなら悟りに於いては、与えられる当のご本人である自己というものは、何ら介在しないからです
「私というマインド」は悟ることは出来ません、脱落するだけだとおもいます
又、プロセスも同じです
「悟りに向かうプロセス」という事自体が、全く自己矛盾しています
なぜなら、自己が悟るのでは無いからです マインドが「気づき」になるわけではありません
自己とは自他を分離して、
私と貴方、私と他人、私と隣人、私と世界、私と神、私と悪魔、私と宇宙人、私の過去、私の未来、私と世界、私と宇宙
など
根本的に分離と二元性、即ち、見るものと見られるものの分離を起こしているものだと思います
思考、想念、感情、記憶である総体「マインド」が
創り出したもの、それが自己であり、自我であり、「私という自己意識」だからです
そのマインドは分離性そのもの、二元性そのものであり、自分以外に他人があり、自分以外にブラックがあり、自分以外に神がいて
自分以外に天使や悪魔がいる、自分以外に世界が、宇宙が有り、自分以外に上司や親や、子供や妻や夫がいると思っている
そう思いこんでいる二元性の思考、想念、記憶、感情そのものであり
それは悟りという「意識」そのもの、「気づき」そのものとは、全く関係がなく、全く接点が在りません
全く次元が異なるものです
分離性と非分離性
二元性と非二元性
全体性と個別意識
マインドと意識・気づき
が
どうして混在できるでしょうか、それは完全に違うものです、
既知なるものと未知なるものです
知られるものと知られざるもの、
実存ではなく存在、なるのではなく在るもの
知覚できるものと知覚を超えたもの、想像を超えたもの、推測をこえたもの
それに反して、自己というものはその二元性そのものであり、分離性であるマインドが生み出したものといわれています
それが、どうして「意識」「気づき」と言われる全体性の中に存在できるでしょうか
「私という自己関心・意識状態」というエゴ、自己、自我、偽我がある時
すこしでも
現在意識の中に、そのマインドがある時、そのマインドが「自分が悟った」という
それは、悟りではないと思います
その「自分が悟った」という自覚現象は、マインドが創り出した亜空間、疑似空間であると思います
此処に閉じこめられ、それをマインドである私が自己が悟ったと錯覚しているのではないでしょうか
ですので、アンマの云われるように
私が悟ったという思いそのものが、現在意識にあることで、それは悟りという「気づき」ではなく、マインドの或る一つの意識状態
想像され、エレメンタルとして与えられた或る意識状態であることが暴露されます
ですので
「私が悟った」「私は悟りのプロセスに入った」
もしくは
「貴方が悟る」「貴方が悟りのプロセスに入る」
は全く以て、悟りとは関係がないマインドの策略であることが
分かります
上江洲義秀先生は先日の秩父市での質疑応答で「宇宙の支配者は悟っていない」と言われていました
それはどういう事でしょうか
「宇宙の支配者は悟っていない」とは、表現を変えれば
「宇宙の支配者は悟りという非分離性・非二元性ではなく、自分と自分以外のものが分離して有ると思っているマインドである」
即ち
「宇宙の支配者は思考というマインド、時間というマインド、原因と結果というものを創り出すマインド・そのもの」であり、私という分離性の自己、即ち
強大な私という自我意識そのもの、分離したものとして自己と対象を意識しており
それは即ち、私たちの現在の心というマインドそのもの、この分離という二元性の認識の形式そのもの
それは敵と味方、正義と悪魔、善と悪、等の分離する思考、意識、想念そのものではないでしょうか
その「根本の無明」はマインドの根源であり
それが私たちのマインドそのもの、それが私たちそのものの自我であり
現在のわたしである、偽我の心、自体だと思います
その心が
そのマインドが
自分以外に、自分の見る対象が在ると錯覚し、創り出し、悪魔や天使、善や悪、敵や味方、ホワイトやブラック、相対宇宙を生み出しているのであり
この思考によって自分以外にあると錯覚している外部の分離認識を生み出して
自分以外に有ると思わされているところの、家庭や社会や、ご近所や、会社や世界や宇宙を
即ち、自分が認識する対象という幻を生み出したのではないでしょうか
マインドとは夢であり錯覚である次元であり、状態でもあるとおもわれるので
マインドが創り出した自己・自我・エゴが、悟りという真我の次元に入ることはできないと思います
悟りという次元から見れば
このマインドと言う次元は幻であり
「私という自己関心の自己意識・自我」は存在しないことになります
そこから見れば、対象である客体としてのこの宇宙も、この世界も、そして疑似主体である自己も存在しないのでしょう
上江洲義秀先生はその真我にいます、否、真我そのものとして現前しています
そして云われます
既に貴方は悟っています
悟るのではありません、と
ですので
「私が悟る」と云うことは
私という自己そのものが、マインドが創り出した錯覚である以上、全くのナンセンスであり
「自分が悟った」という自覚やその知覚が有ること自体が、すなわち
それは
マインドの状態であり、マインドの範疇であり
悟りではないことをハッキリと示しています
クリシュナムルティーの云うように、「良くなることは良きことの否定である」
良くなることはビカミングであり、虚偽である
良きことはビーイング・存在である、と
それは
既に此処にあると
※は久保の解説です