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果たして自分のものというものがあるのだろうか?


果たして、この世にもあの世にも自分のものというようなものがあるのだろうか?
自分が自分の力で為している事があるのだろうか?
この自分自身の意識それ自体が完全なシステムから派生され生まれたものである

自分自身とか、自分のものとか、「自分は」、「自分が」という意識それ自体がシステムから発生したものである
観察している私も、観察されている私も、この完全なシステムが生み出したのであって
「私」とは観察している私や、観察されている私によって生み出されたのではない

そもそも、この自分は自分が生んだのか?
否そうではなくて、システムの結果として生じているのだ

自分の身体も自分の意識も自分が造ったのだろうか?
確かに私の身体は父母が縁で生まれたが、
その父母も同じように、その又父母によって縁有って生まれてきたのである
私達が気がついたときには、既に生まれており
そして身体があり、身体を持っており、身体と自己同一化していた私が生まれていた
五体が満足であり(又はそうでないこともあり)
そして、この肉体と自己同一化している「派生した私」は此処まで生かされてきた
が、実際には自分が生きてきたのではない
自分が自力で生きてきたのだと思ってしまうのは真の私ではない証拠だ
その造られた私とは、自分は肉体だと「思っている私」だからである、恐怖の私である

生かされている(若しくは自分が生きているのではない)・・・これが真実ではないだろうか

よく考えれば分かるのであるが
私達がいままで此処まで来れたのも、全く私達は生かされているのであって、自分が生きているのではない

心臓一つとっても、呼吸一つとっても、思考一つとっても、感情一つとっても、意識一つとっても、この自己中心的な自己一つとっても
何一つ私達のものではない、私達はプロセスから生み出された現在意識なのである

自分が見ているのではない!視るという繊細で高級なことが起こっているのだ
普通に考えれば分かることだ・・・
眼球がここにあり、その眼球の機能がうまく働いているので見る事が出来るというわけだ!
それを「自分が」見ているのだと錯覚している・・
それは飛んでもない錯覚だ!視ることが起こっているのだ

眼球の情報が脳に伝えられて、脳がキチンと機能して、その情報を処理して認識することが起きて初めて視る事が可能になっている、この完璧なるシステムが確立しているからこそだ
だからこそ自分が自分の力で見ている・・と思う錯覚が生まれることが出来る
この過程に私達自我や自己がすき入る間隙は全くないのである、この過程が完璧に行われているので「自分が見ている」と思ってしまうのである


そして、知覚も、思考も、記憶も、欲望も、意識も同じである、脳が正常に機能しているからこそ生まれたのである
自分の力で知覚し、思考し、記憶し、欲し、意識している、のだとの、その錯覚を思う事が出来るのも、そして人を恨んだり、好きになったり、欲したり、嫌いになったり、恐れたりする事さえ出来るのも
頭脳が正常に機能しているからこそできるのだ、頭脳は受け取り、そして発信し、頭脳の条件付けの通りに機能してしまうのである

もし頭が正常に機能しなかったら、人を妬むことが出来るだろうか、嫉妬心を持つことが出来るだろうか、そしてその嫉妬心から自分の競争相手に嫌がらせをする行為が出来るだろうか?
また宇宙的な妄想を抱くことが出来るだろうか、はたまた脳内投射や、DNA操作、インプラントによって、又は脳内麻薬で悟ったと錯覚したりすることが出来るだろうか
私達の肉体の行為も、自律神経と体性神経の微妙な組合せで出来ており、その神経組織それ自体は勿論私達が作ったのでは決してない

私達が行う良い行為も、悪い行為も、そしてその行為を悪い行為だとか、良い行為だと思ったりする「判断・非難」という思考作用も、そしてその判断を更に評価している自我の働きも、その自我そのものも、自分が自分によって意識して行為をしていると思い込んでいる脳の複雑な機能が働いているからこそであり、脳があるからである

即ち、この私、自我とは頭脳があるからこそ発生したのだし存続することが出来ているのである

だからして、良い事の行為も、悪いことという行為も、共に体と頭脳が有ればこそであり
その良い事と悪いことについて判断し、思考することも、頭脳があればこそであり
この私が書いている文章を見ることが出来るのも目が機能し、頭脳が機能し、条件付けられているように自我という意識が働いているからであり、実際にはこの過程プロセスには全く私達の自己自我は関与していないのだ
私達は造られている結果だからだ、そしてだからこそこの私達とは真の私ではないと、魂ではないと

だが世間の観点とは自我発生のプロセスには関心を寄せずに、プロセスの結果である自我の活動だけに関心を寄せている

そして自分が生きており、自分が思考しており、自分の怒りだ、自分の恐怖だと思い込んでいる
だが恐怖から逃げようとすることが恐怖の習性であり、その恐怖は私達の頭脳がそのように条件づけられてしまっている当然の結果である、すなわちこの自他に分離している自我意識の本質が恐怖なのではないか

この身体
この五感の働き
この善悪や判断や無判断などの思考の働き・こころの動きの一切、
そしてそれを自分がしていると傲慢に思っている私と言うこの自分自我自身すらも

それら全てが成立しているのは、まったくこの私・自我によるのではない、システムが完全完璧に働いているからだ

自我自己という分離している私感覚も、その限定されている意識も脳によって生み出されたのである
この身体と脳とそれを運営している完璧なシステムが完全に機能しているからである

この完璧なシステムが、私達の意識と行為と生命を生み出したのであって
私達が生きて、意識して、行為しているのだと傲慢にもそう思ってしまうことが出来るのも、このシステムが稼働しているからこそである

この完璧なシステムを見れば分かるように大いなる叡智と絶対なる調和と、愛があればこそ
この自分が為している、自分が生きている、自分が思考していると、錯覚することが出来るわけである
条件付けをしたり、脳内操作もDNA操作もできるわけである

自分が動き、行為していると思うだろうが
身体とその神経組織ということが天体の運行にも等しく一糸乱れぬ叡智が働いていればこそ身体を動かせるのである
それは丁度自律神経組織というベースが造られており、そのベースの上に体性神経が働いているので思うように行為しているのと似ている


自分が生きているのだと思うだろうけど
この見事に宇宙的な調和で働いている何十億という細胞の絶大なるハーモニーによって
食物は咀嚼され、吸収され、排泄され、そして私達が生かされ、生きることが可能となっているのだ


自分の生命だと思うだろうけど
完璧なシステムの稼働で生命が与えられているので、それ故に私達は生かされているのである、私達が自分で生きているのではないのだ、私達はいかされているのである、生きているのは生命であって私達結果ではない

そして同じように
自分が思考しているのではなく
この思考の基盤である、脳細胞という物質があればこそであり、そして極度に複雑な神経細胞が与えられているからこそ思う事が出来るのであり、決して自分が自分の力で思考しているのではなく、システムのお陰で思考をする事が与えられているのである、そしてそこに条件付けられるということが起こったのである

そういうことであるから
悩むことも、恐れることも、欲望する事も、競争する事も、イライラする事も、愛することも、良い事も、悪いことも、健康も、病気も、全ては、与えられているシステムから発生したところの「この意識」が有ればこそ思考し意識され意識できるのである

そしてこの自己意識も「自分」が意識していると思っているけど、この自己も意識は、実は付与されているものであり脳の条件付けに従っており、どのように思考し、願い、行動するかも脳の条件付けの範囲を超えられない



私が思考することも意識することも脳が機能しているのであり、その脳が消滅したときに自己意識も消滅するのだ
(※この脳とは肉体脳や幽体脳だけではなく全体脳を指している)
けれども未知なる真の私とは決して自己意識や現在意識ではない
従って脳が消滅しても消滅しない

現在意識の私、この「自分は」、「自分が」、「自分の」、と言い続けている私
転生を続けていると言っている私も、この私自身が与えられた贈り物であり、生かされているのである
転生を続けているのは、「脳下垂体という現在意識」に焦点をあてている魂ではないだろうか
魂とは肉体でもエーテル体でもアストラル体でも、メンタル体でも、サイコ・ノエティック体でもコーザル体でもないと言われている非分離の超意識である
この脳下垂体に焦点がある現在意識の私・私達にとっては魂とは未知なる私ではあるけど
私達の生命も、五感も、身体も、思考も、私と言う現在意識の自我も、その行動も与えられている贈り物なのである

何一つ私達のものはなく、何一つ私達が出来る事はなく、一つとして私達が生きているのではなく、何一つ私達が自分で存在しているのではない

私達が存在しているのではなくて、私達は存在させていただいているのである、
私達が生きているのではなくて、私達は生かさせて頂いているのである、
私達が思うのではなくて、私達が思わさせていただいているのである、

そして
私達が在るのではなく、私達は在らしめられているのである、

通常の思考の観点を正常に戻せば、これこそが常識ではないだろうか

私・自我とは魂からの聖なる贈り物である