“ワンネスは家庭から始まるということを覚えておきましょう。

私たちは、他の人になにが起きているか気づかずにゲストハウスのなかで他人のように暮らしています。

私たちは他の人から独立して存在していると思っていますが、実際は私たちの存在は分離することが出来ません。

”結びつき“を概念として理解していますし、理想として実践しようと努力しています。

シュリアンマ・バガヴァンによると、それは他人を完全に感じて体験することです。

あなたがあなた自身以外の誰かを体験するのは本当に可能でしょうか?

出来事であれ、状況であれ、人々であれ、人生におけるすべての体験は、あなたの内側で起こっているだけなのです。

あなたは、宇宙の中心です。

感情であれ、
不安であれ、
恐れであれ、
愛の渇望であれ、
孤独であれ、
幸福感であれ、
喜びであれ、
あなたがあなた自身に触れることが出来れば、
他の人もまた人生が彼らにそれらをもたらすときちょうど同じ体験をしていることに気づきます。

あなたが自分自身に触れるとき、
あなたは他の人にも触れます。

あなたの両親、配偶者、子供、兄弟はあなたの一部であり、あなたは彼らの一部なのです。
私たちは常にお互いの考えや感情に影響しあっています。

分離感はただの幻想です。

これが、”connectedness”(結びつき)の始まりです。”

………….。

私はその昔、マルティンブバーというユダヤ教の高名なラビの書いた「我と汝」という書物を読んで感激したことがあります
我(分離感のエゴではない)は汝があるときはじめて現れるというものです
従って、その逆の汝は我がある時に現れるという、高次の意識状態のことを、いかにも、個人主義思想の良い意味での根源まで思索した哲学者・宗教者の意見でした

我(分離感のエゴではない)は汝があるときに現れる
汝は我(分離感のエゴではない)がある時に露われる

我は汝であり
汝は我である
「我ー汝」であり、我は汝と単独では存在できない、真に我が存在するには「我ー汝」という、存在状態で出現するという、内容だったと思います

本当にダサージの言われるように、私達に他人が汝として、存在しているのでしょうか、
しかも一番親しい間である(一親等)親や子供に、真実の意味で触れているのでしょうか
ここでダサージは自分が自分自身に触れていないのに、何故自分以外の人間の内一番親しい親や子供に出会うことができるだろうかといっています。

自分とは勿論、人格であり、その人格の中身は欲望や悲しみ、不安、攻撃性、暴力、怒り、分離性、批判、非難であり、
常に相手をあるがままでなく
何かの基準で見て判断している冷たい存在、相手を利用することしか考えない存在、そうして究極的には恐れであるもの恐怖です。

それが私の本性であり、それに触れてそれにあるがままを抱きしめることが出来なければ、どうして親や子供を抱きしめることが出来ましょうか。
まして他人を抱きしめることが出来ましょうか
とダサージは言っています。

他人のことをあなたは心配しているように、自分自身に嘘をついていますが、他人のことをあなたは関心があるのではなく、自分にだけ関心があるのです、真の意味で他人に関心が持てるのは、その恐怖を根幹とする自分に出会う事が出来た人だけです。
それが
「我ー汝」という存在レベルの自分です、それをダサージは指摘しておられています

ですから、私達は他人という存在に出会っていないのです。

親や子供にも出会っていないのです。

私達は閉ざされて生きているのです。

私達には人間関係は存在していないのです。

私達はカルキの言う人間関係が、そもそもないのです

人間関係がないのに、何故愛することが出来ましょうか
何故、相手を心配することが出来ましょうか
そういうわけなので
現段階での私の「愛情」や「他人を思い心配する同情や思いやり」は、自分自身に対する演技なのです。
本当は、私達は孤独なのです、自分しかいないのです。
そしてそれでは寂しいので、自分が愛情のある、思いやりの深い人間だと自分に思いこませているのです。

しかし
真実の道はあるがままの道です
私のあるがままの事実を見ることからです。

このあるがままの自分を、正面から受け入れて、しっかりと見つめるとき
そこに
不思議なことが起こります。

他人が存在するようになってきます

それは小さな、そして大きな奇跡です
色んな神秘現象よりも更に更に素晴らしい奇跡が起こり始めます

自分に出会うことによって
自分を抱きしめて、受け入れることによって
それは始まると思います
徐々に自分のなかに
意識の焦点が動き始めます

自分の意識が晴れて拡がっていきます。
それは、即ち
自分の意識が「人格」「ワサナ」に出会うことにより、「魂」「観照者」へと拡がっていくことだとおもいます
これは別名「不滅のパーソナリティー」呼ばれている、エゴや自我や人格ではない意識
全体性のなかの、その一部である輝くパーソナリティーだと思います
「一即多」「多即一」である、パーソナリティー

「我ー汝」の我です
これはエゴではありませんし、人格でもありません
それが姿を現してくるのです、私達の中に
美しい事が起き始めてくるのだとおもいます

ここではじめて家族の人間関係が姿を現します

それ以前には人間関係すらありません
虚構の家族なのです
家族があるためには、このように「我ー汝」の我が見つからなくてはならないと思います

そして
ダサージはここで
更に「永遠のパーソナリティー」についても言及しています
真我に至ったとき
全てがワンネスの中で
光り輝いている「個にして全」「全にして個」である
神の一部であるパーソナリティーについてです

これから先は
私には分かりません
レベルが達していないからです



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