何故、分離して見てるのか

何故、私は対象を分離して見てるのか、

であるから
認識者と認識されるものが別々にあると考えてしまうのか

自他を分離して見ているのは何故か

なぜ自分自身を対象としてみているのか

恐怖が私ではないのか

見ているものが恐怖そのものなのではないか
そして恐怖を対象化しているのではないか
私が恐怖を見ているのではなく
恐怖が内面において、自身を対象化しているのだ
それが客体化するというマインドの作用であり
マインドの作り出している二元性・分離性のシステムではないか

その分離の状態レベルであるマインドが
見る者と見られるものの分離を引き起こしたのではないか

その分離性が
神を自分の信仰、認識、体験の対象としてしまうのか

そして
内面を認識対象へと客体化してしまうのか

真の主体は客体化できないのではないか

真の主体は認識対象ではないのではないか

見る者は見られるものではないのか

一昨日、上江洲義秀先生に尋ねてみた
先生が対話している「神との対話」の神は対話の相手でしょうかと

その答えは

神は我が内にあり、神は私であり、神と自分は分離しておらず、神が我として語っている、と

そこで私は思った

神がもし、自己の対象として、外部に存在し、
認識や体験の枠内にあるのなら、そこは二元性の内にあり
それはマインドの創りだした現象に過ぎない、と

さらに一昨日の先生とのお話の中で
キリストが語ったという“私達には「多くの館」が準備されている”と言うことについても
上江洲義秀先生は概略でこのように語った

この館は60億人の人類一人づつと言うことです、と

このマインドの分離性の中で機能している私達は自分があると信じているので、
そのマインドによって対象を内部と外部に作り出し
内部は即、外部であるので
自分の身体と、そしてその自分の住む世界を作り出す

これが幽界であり、霊界であり、虚構の世界です、と



私達にもしそのマインドを超えた高次の意識が訪れ
この私達のマインドの領域ではない、その高次の意識の領域に同調し、同化することができたなら
そこでは、自他の分離はなく
このマインドを支えているこの「意識」は
即ちその「意識」、大文字のマインドは
「静寂」と「思考の停止」であり、
「空」と「無」であり
そして平安と愛が溢れていることだろう

更に、もしより高次なる状態(I AM )が訪れる運命であるなら

この「高次の意識」を支えている、更なる「気づき」の領域へとすすむことができるなら
そこは完全なる全体性の世界、
生まれることも、死ぬこともない
私が即、あなたである世界、
全てが愛そのものである、
歓喜の世界
マインドや言葉や知性や理性では絶対に近づけない領域
本や知識や情報や、それらの、それらによる伝達は出来ない、
それらマインドを遙かに超えた世界
私がいない世界

そこへ上江洲義秀先生のように至り

そこに存在しているのなら
外部は内部であり
内部は外部であることだろう
見る者は見られる者で
「見ること」だけがあるという、ことだろう
そこへは
そこに至るには
この内部からのみ、道が
続いているという


また、もし地球がこのレベルに参入したのなら
この地球に
キリストの言う「多くの館」はもはや必要なく
従って幽界や霊界は無いことであろう
何故なら
実相世界は今ここに既にあり
それは
内と外という分離
‘自分と対象’という分離を超えているので
幽界や霊界という分離の世界は必要とされないからである

それはここに既にあるのであり
ここに肉体を持っていて、もしこのレベルに到達したのなら
いや肉体を持っているからこそ到達できたのなら

生まれることも
死ぬこともなく
生死を超越したこの実相世界に
‘いま’生きているのであるから
当然、死ぬこともなく、死後の世界もないと言うことである

そのように私は解釈した

幽界や霊界では思考や想念が即、そのまま形象化(物質化・具象化・形態化)している世界なので
この物質界のように、学びの機会を得ることが非常に困難であるという

その「多くの館のある一つの館から」から「別のある館」に移動することは幽界や霊界では困難なのかもしれない

その「館」ではこの物質界にいたときと全く同じ姿の自分を想念で作り出し、
環境や友人や肉親や全ての世界を現出させていることだろう
それが一人一人に現出することだ
だがそれはマインドが作り出した分離の想念の世界である

この物質界にいるときにこそ、この幽界や霊界に行くことを必要としない「存在」というレベルへ
今ここにある実在世界、全てを成立させている根源界、実相世界へと参入することの必要性が改めて痛感された

この目覚のレベルに至ったものは、
当然に、それらの現象界に自由に移動したり、出現したり、消したり、などの神通力が自由自在であり
当然、多くの分身を作り出すことが可能であり、そして兄弟を目覚めさす、その為に多くの力を使うことだろう
真我の覚醒に全力を尽くすであろう

想われる

その「気づき」とは観念や概念ではなく、
実際にその「気づき」は物質や幽質を生みだし、変換し自由に超越できる力でもある

それは
その「気づき」への
そこへの参入は、起こる

‘私’は参入できない
それ自身が起こるのだ、自分・人格は最早関与できない
そして、それは
自分という、内なるこの門を通過しない限りは実現しない

この内なる門は知識や言葉や情報などのマインドでは進むことが出来ない

明想や黙想を通じてでしか歩めない


今、私達は
この私達のマインドと言うものが、内と外を満たして、自他の分離を発生していることを
おぼろげに感じ始めている
それを
完全に見て、理解したとき
私達は
「意識」のレベルに参入するのであろう
そこは
マインドを支えているレベルと言われている

自他の分離が存在しない
認識の主体という、この意識の座という枠が、取り払われた領域
空と無と言われている世界だと、推測される

そこにおいては
この現象界において輪廻転生を発生せしめている
この魂という根本設計図は解消し
いわゆる
観照者と言われる意識が目覚めている領域だと想われる

そして
更に
その奥に
その意識を支えている基底、
根源
完全にひとつなるもの、
全体なるもの、
完全なるもの
今ここにあり、全ての時と、全ての空間にあるもの
時間と空間を超えるもの、
全ての意識であるもの
愛、歓喜、平安そのものであるもの
名付けられないもの
非二元性、
非分離性そのもの
言葉や言語や知識や概念では絶対に接近できないもの
時間空間という私達の認識の形式を超越したもの
時間と空間をささえているもの
時間と空間を生み出している基底
根源

それが「気づき」の領域、実相世界、実在、存在
とおもわれる






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