クリシュナムルティーはいつも言いました
恐怖から目を逸らすなと
やってくるストレートの又はナックルのボールから目を逸らすなと
目を逸らしたり、怖い!、嫌だ!と言って目を瞑ったり、目を逸らしたり、顔を背けたりしたら
ボールを見る事が出来ず、ジャストミット出来なくなるではないかと、それでは空振り三振が良いとこである
そしてやってきている出来事や恐怖から目を背けてしまうことによって
それらの恐怖や不安や苦しみは無意識層へと沈潜していき私達を動かす原動力となっていくのだ
それは何時も何時も、何度も何度も私達の前に現れてはきて私達を覆い尽くし
私達に「目を逸らさずにハッキリと視てくれ」ることを求めて纏わり付くことであろう
では、それらの目を逸らす主体とはどの自分か、ボールから顔を背ける私・主体とは誰か
それは真の私ではなく
わたしという自己感覚であって脳下垂体に位置している主体である
その私は魂によって投影されているものである、それが通常は自我と言われている人格である
それをエレブナではサイコ・ノエティック体と言って
脳下垂体というところに位置している現在意識であって、それ自身の行為と思考と言う活動によって
ハートの中央部に徐々に形成されていく 不定形の体と言われている
それが私達現在のパーソナリティー、現在意識である
この現在意識は
時間軸の中で
進化し、徐々に形成され
肉体の死を迎え
そして
魂と共に
夢の世界と同じ素材で出来ているバルトの49界を3日間で通過し
転生に際しては
一旦コーザル体に収納され
さらに魂に収納されて
転生していく
それは
大天使によって
予め
準備された母体に
吸気と共に
物質界に誕生する
自我という主体である
素質的な可能性のある限定されている私である
真の私ではない私である
このサイコ・ノエティック体という私が
松果体・魂を通じて真の私からのヴァイブレーションを
受容出来るまでに成長したとき
私達サイコ・ノエティック体は魂に戻ることが出来る
魂という真の私の接触点から
真の私へと吸収同化されていく
それがサイコ・ノエティック体という私達の現在の意識の自己であり
これをクリシュナムルティーは自我と言っている
けれどもこの自我は
或る重要なる役目を持っているのである
変換器の役目である
真の私は魂を通じて、この現在のパーソナリティーという自我を物質界とアストラル界に投射して
物質界とアストラル界のネガティブな波動を浄化し透明なる光に変換し愛の媒体となって
この物質界とアストラル界の否定的なネガティブ質料を「愛」の波動に変換する役目を仰せつかっているわけだ
だから
自我という現在のパーソナリティーは変わりうるし変わらなくてはならない
決して否定的な仮象の存在だけの自我ではないのである、
自我も錆を落として立派な包丁となり
真の私が創り出す料理には必要な包丁という道具が必要であるように、立派な包丁に成ることが出来るわけである
料理人にはその包丁がなければ立派な料理を創り出すことが出来ないからである
だから自我のことを罪悪人だと決めつけてはいけない
どんな罪悪人でも改心して立派な人間になることだって出来るからである
錆を落として磨かれて更に変成を遂げて立派な包丁に成ることが出来るからである