上江洲義秀先生は
一命一体そのものである。

彼は、私に良く言う
「肉体は私ではない」
そして
「一命一体である」と

一つのいのち
一つの身体

これが真実ですと


それにひきかえ私はどうだろうか

今、書いている私は
私自身はどうか

そう言う観点からすると
残念ながら

私自身、全く肉体と自己同一視している

私は自分自身をそのように錯覚しているのだから、
従って
他人のことも
個別感と分離感を持った
人格、個人意識的存在と思ってしまっている

しかし
彼は上江洲義秀先生は
その分離意識は全くないという
けれども
意識の焦点をわざとずらして
この個別の肉体意識に合わせて、
三次元界にかろうじて
今、いるという

そして
また彼は彼の意識を戻して、本来の状態にすると
全てが完全完璧、何ら分離のない
一命一体の
非分離、非二元性の実相にいるとのことである

この現象界が彼の目にはそのまま実相世界なのである

実相と現象を分離して考えること自体が
迷いの分離なのである
現象世界と実相世界は一つであり、分離できない
ここがこのまま
完全完璧なのだという



このときの彼の状態は
一命で一体
、本当の意味での
ワンネスになっている

彼のこの状態は

この私には
全く想像も、推論も、推測も、考えも、思うこともできない

彼のいるところは
時間も空間も超越した、
非分離の世界だという

私のいるこの世界はマインドに被われた夢の世界である
何しろ私自身が夢なのだから
夢が見ている世界
この個別存在があると持っている世界

そして
この夢の分離状態で肉体と同一視し

この人生劇場で悩んだり
病気を治そうとしたり
お金を増やそうとしたり
悟りを啓こうとしてるのだから
……。

そう言うわけで

私は
全くマインドと同一化して、その結果
個別性、分離性に陥り
自分と自分が見る世界、
対象の世界を作りだし
自分と分離したものと思ってしまっている

また
その自分すら肉体と同一視しているので
その結果
神聖なる存在すら、自分と同じように
分離した、個別存在だと思うようになってしまい
カルキのこともああいうインド人で肉体を持った個別存在と捉えている

だから
キリストもそうだし仏陀もそうである、
聖なる存在を肉体的な形姿を持った個別存在と捉えてしまっている
上江洲義秀先生のことも55才の沖縄出身の普通の男性だ等と捉えている

自分自身がそういうわけであると
勿論、神や天使や、悟った人に対しても、その存在を分離した個別的な時空間のある形姿的存在と間違って捉えてしまっている、自分とは別の対象の存在と思う事になるし

妻や
家族や
親も
友達も
隣のおじさんも
同じように
肉体を持った個別した存在だと
錯覚してしまうことになる


もし
この私が
自分は肉体ではないことに少しでも気づいているなら
相手のことも
当然

肉体的な
個別存在とは思わないだろう

また
相手を自分とは分離している霊的な個別存在とも見ないだろう

その霊的(といっても肉体をベースにして作り出された想念形体)な存在ともおもわないだろう

その霊的な存在は
玉響ではない
私達の観照者でもない
又それは別問題だ


また
相手を霊的な個別存在と見ていることが
その霊的に捉えていること自体が

自分がいかに自分自身を
「私は肉体という分離した個別存在である」という
「自分は人格だ」
「自分は個人だ」という、
マインドの錯覚に捕らわれているかを証明している

相手という肉体を持った個別存在がいると考えること自体
これは
即ち
自分をやはり「自分は肉体である」との錯覚に全く捕らわれている状態であるであることだとおもう



これが私の久保栄治の現状である

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