獄舎を飾り立てるな



獄舎を飾り立てることは獄舎の中に更に囚われることとなりその獄舎から解放されにくくなるということ

マインドという獄舎にいるにもかかわらず、囚人である私・記憶が、マインドの獄舎を良くして住みやすくしようとしている

ということだ

内部にある世界を外部であると見て、世界平和運動に参加することとは、自分の外部に世界が有るという「錯覚をしている

マインド」という獄舎を強化してしまうことだ

これは「私と世界の分離」という錯覚を強化し維持してしまうこと、になってしまう

すなわちマインドの囚人を増やし獄舎を増築し補強することだ


これは虚偽というマインドが起こしているマインド自体の働きではないか、これはマインドの動きだ

真実は獄舎もなく、獄舎に囚われている「私」も「あなた」もいないといわれているのに

獄舎という三界を生みだしてそこから脱出しようとすることと、この獄舎を良くして住みやすくしようとすることも

獄舎があって、獄舎に囚われている私がいると云うことを前提にしている、

この前提そのものが、錯覚であるといわれているものであるからだ


良くなろう、進化しよう、神のようになろう、とマインドに従って、このように私自身を善くしようとする事がマインドの働きだ

だからマインドやその記憶であるものの動きに同調しないで

マインドであり記憶であるものの、あるがままをあるがままにみることだ

それだけがあるがままから離れていくことだ

言葉のさざ波なく自我を自我とただただ見ることが、自我から離れて行くことである

思考のかけらなく思考と感情と記憶とマインドを、ただただ見ることが記憶と思考と感情とマインドから離れて行くことだ

同じように観察者と認識者と体験者をただただ見ることが観察者と認識体験者から離れていくことだ

起きている事、運命、出来事、カルマを、そしてそのことに一喜一憂している記憶というものを、批判したり逃避したり

せずに、両者のすべてを暖かく受け入れることだ、選択なしに受容すること、思考の波紋なしに凝視することだ

時間を見切ることが時間から離れて行くことだ



だから、ただただ虚偽を虚偽と見ることは、虚偽から離れて行くことなのだ
(これを観察しているものは観察されているものだと)


なので虚偽を虚偽と見ることだ


それでは、その虚偽とはいったい何だろうか

私は肉体でもなく、思考でもないのに、自分が行為し、自分が思考していると思っている虚偽

私はあなたで、あなたは私であるにもかかわらず自他が分離していると信じているという虚偽

万物は全てがひとつであり、全てが完全完璧なのに、一つではなくて分離していて不完全だと思っている錯覚・虚偽

神と私はひとつであり、一体なのに神と私は分離し異なっていると知覚し、認識し、体験している、この知覚と認識の虚偽

個というものはなく全てはひとつであり、私とは全体であるのに「結果であるマインドの記憶」を私と思っている虚偽

外部とは内部であるにもかかわらず、内部とは別に外部というものが独立して有ると思っている錯覚の虚偽を

未来は過去なのに、そして過去現在未来とは単なる映像なのに、その時間が有ると思っている錯覚・虚偽を

この映し出され投影されている無限のストーリーとは非実在であり、映画に過ぎないにも関わらず、現実であり
実在だと錯覚している虚偽

自我は単なる記憶の結果であり、この記憶を生み出しているマインドも映像でありプログラムにもかかわらず
自分が存在していて、思考し、行為し、生きているという錯覚

敵も味方も、神も悪魔も、他人も私も、全てはひとつであるにもかかわらず、自分という魂があると思い込んでいる錯覚を

善くなることも、進歩も、進化も、悟りも、解脱も全てがプログラムの引き起こしている映像なのに、自分という
個人的な魂があって進化し、解脱し、悟りに到るという虚偽を

私はいないのに、脳にやってきた私と言う感覚、意識、知覚、認識、体験、欲望、願望、記憶という「プログラムに基づいて
マインドが生み出している」にすぎないものを私だ、私が存在しているのだ、と、私でないものを私だと思い込む錯覚・虚偽

これらの虚偽を虚偽と正見する事だと云われる


虚偽を虚偽と見ることとは、真実を真実と見ることでもあることだと

虚偽を虚偽と見ることはマーヤをマーヤと見ることではないか、マーヤをマーヤと見切れるものは真理しかないと

嘘を嘘であると見ることとは、すなわち真理を真理と見ることへと繋がっていく

これが私達に教えられていること、であり「非二元」の登り口である

なので、マインドをマインドと見ることはマインドから無限に遠ざかっていくことであると

それはマインドを超えた「未知なるもの」(実在)に近づいていくことだ、だから否定的な接近と云われている


マインドとは気づきではなく、分離であり、二元であり、時間であり、マーヤであるものだ

マーヤによって生み出されている虚偽であるものを、言葉なく、知識なく、心なく、ただただ見ることだ

そして、これを見ているものは「見るものは見られるものである」なのであると

嘘を嘘であると見る事だ
時間、過去現在未来とは嘘である
私と云う「貴方と分離している魂」とは嘘である(輪廻転生して神に到る私とは映像であり虚偽の現象だ、プログラムの結果だ))
悟るとは嘘である、解脱するとは嘘である、真我に到るとは嘘である、その至る所の肝心の個的な実体とは映像だからだ
外部と内部の分離は嘘である、外部とは内部にあるのに、外部が内部なのにそれをマインドの記憶が「自分は肉体である」
との思い込みからそのような錯覚を起こしている、マインドが脳を経由したので、そのマインドが脳を経て脳内に世界を投影し
そのマインドの記憶自らが錯覚しているのだ
自分は肉体であると言うのは嘘である、自分は肉体でも、肉体であると信じ思い込んでいるマインドでもない、個的な魂でもない
この際の自分とは記憶にしか過ぎない、記憶の条件付けの反応であるものが思考と感情と行為である、この私ではない私の
実体である



このマインドである獄舎というものは錯覚の楼閣であり、この錯覚の楼閣を良くしようとする行為は、砂上の楼閣を飾り立てる

ようなことをしている

世界平和を願い、祈っていること自体が、世界は私とは別に外部に有り、私とは世界ではなくて、私と世界は別だとのマインドの

錯覚から始まっている

これらは肉体が私だという虚偽の前提から出発している、良くしようとしている世界とは(対象とは、相手とは)私の中にあり、

私の投影なのであると云われているにもかかわらずである

従って相手とは対象とは、自分が映し出している映像なのである

そしてその私とは単なる個人の私ではなくて、

もっと深奥にある第一の想念である「わ・た・し」というマインドの根本の私

個別性と分離と二元と時間と虚偽空間を生み出しているマーヤの私なのである


なのでその虚偽の私に従って、何故、良くなろうとするのであろうか、

良くなろうとしているものとは誰か

何故、変わろう、変えようとするのか、

変えよう、進化しよう、改善しよう、愛深くなろう、神と一体になろうとしている者とは誰か、それは記憶なのだ、マインドなのだ

何故目覚めようとするのか、目覚めようとしているものとは誰か、それとも真の私とは最初から目が覚めているのか

目は最初から醒めており、真実の目ではない「この分離の目」が働いてしまっているので(目を覆ってしまっているので)錯覚しか

見えていないのではないか


眠りこけている者とは私なのか、「見えていない目」「眠っている私」とは真の私の目ではない、真の私は眠ったことがないと云

われているからだ

マーヤによって生み出されたマインドの記憶が、言葉を換えて云えばそのマインドが個的な頭脳を自分だと信じて、自分は眠って

いると自覚しているのである、そして目を覚まさねばならない、覚醒しようとするのである

だから眠りから覚めようとしているものも、眠りから覚めなさいというものもマインドの働きである、

マインドがマインドを認識してマインドから逃避しようとしている

マインドは自らを受け入れ自らを愛するべきなのである、記憶が記憶を受け入れて、記憶が記憶を愛するのである

この点から一体全体、

良くなろう、状況を変えて秩序をもたらそうとし、みんなが成長するような理想世界を生み出そうとしている者とは誰なのか

それは結果である記憶に過ぎないものではないか、

マーヤから生み出された「マインドであるものの単なる記憶」でしかない自我というものが良くなることがあるのであろうか

良くなるろうとすること自体が自我の動きである、マインドから発生した欲望なのである。

何故なら既に良きものは良くなろうとしないからである、

あるがままをあるがままに受け入れることが出来るからである

この目覚めようとし、良くなろうとしていること自体が、良きことではないマインドの特徴ある動きである



マインドという根本の無明から派生してきたものは、必ず一方が他方を含み、それは自身が対極を含むことを理解できない

だから以下に述べるマインドの状態とは必ずもう片方を含んでおり、それは共にマーヤの特性であることを、それをマインドは

理解できない


善と悪
美と醜、
神と悪魔、
上位と下位、
価値と無価値、
意味と無意味
結果と原因
進歩と退歩、
崇拝と冒涜
迷いと悟り、
覚醒と眠り
現象と実相、
低次元と超次元、
私とあなた
内部と外部、
成功と失敗、
幸運と悪運、
成就と堕落、
ブラックとホワイト
健康と病気、
誕生と死亡、
豊かさと貧しさ、
戦争と平和、
世界平和とテロリズム殺戮
繁栄と困窮
栄華と衰退、
愛と憎しみ、
尊敬と軽蔑、
劣等感と優越感
卑下と尊大
信心と不信心、
拡大と縮小、
最大と最小、
成長と退歩
理想と現実、
良きことと悪いこと、
悪霊と善霊、
全体と個、
分離と非分離、
真我と偽我、
内部と外部
主体と客体
みるものと見られるもの
観察者と観察されるもの

以上は全く同じものであり、分離できない

以上のことを別と思う事がマインドの特性だと

相反するものとは同じ事の両面である(コインの裏表だ)

これらをひとつのこととして捉えられないのがマインドであり

そのマインドが記憶であり膨大な流れとなっている

この流れの小さな記憶が私となるのである

そして、この記憶が単体の頭脳で機能し、これらが集合して地球を取り囲む記憶帯として残存し、マインドを強化している

その集合の記憶がさらに私達の頭脳を錯覚に縛り付ける働きをするのである


この想念帯の解除と消滅が目前に迫っていると言われているが

今はやりの、「ハワイの秘法」でこの記憶をなくすことは出来るかもしれないし、それはすばらしい方法ではあるけど

しかしこの記憶を生み出しているマインドそのものの虚偽を虚偽と見て

このマインドを生み出している根源まで到らなければ、決して真実には到ることはないと信じている

ラマナ・マハリシによれば、そこでは最早、そのマインドもなく、創造も破壊もないと云われている

さて、このホ・オポノポノであるが、確かに要点を突いているし、分かり易いが、間違った受け取りをする危険性もある

獄舎を飾ろうとたり、獄舎を飾り立てることをしてはいけないのだ

それは自分がマインドであり、獄舎であり、このマインドの記憶でしかない「わたし」が、「わたし」の願望や理想を叶えるために

このハワイの秘法を利用するなどということである、

そうなってしまえば「この秘法」自体がマインドの範疇に有ることになってしまうのではないだろうか

これは素晴らしいが間違う危険、安易に流れる危険もある


このホ・オポノポノでは聖なる根源が記憶の解消に呼応して現象界のプログラムを変えると言うけど

そのプログラムを変えること自体がプログラムであり、それは起こる事であり、

そのことも根源のプログラムであるのではないか


私この自我であり、錯覚であり、記憶であり、結果であるものとは

行為もしていないし、行為は出来ない、行為していると思い込んでいるだけだ

思考もしていないし、思考できない、思考していると思い込んでいるだけだ

感じたりもしていないし、感じられない、感じていると思い込んでいるだけだ

意識もしていないし、意識は出来ない、意識していると思い込んでいるだけだ

この主体もそして客体である対象も結果であり、根源の映像なのであると教えられている


だからこそ

私自我は私自我を愛する、私であるあなたという自我も愛する、錯覚を錯覚として見て、抱きしめる。マインドの、自我の

あるがままをあるがままに凝視する、逃避せず、避難せず、判断せず、完全に全面的に受け入れ、受容し、全託する



そうして

私・記憶自我が、自分が行為し思考して生きていると思い込んでいる「自我という映像」をこの映像を愛する、抱きしめる

何も変えようとせず、何も求めず、全てを受容し、受け入れる、あるがままに・・・・

記憶が記憶を受容するのだ、このホ・オポノポノのように・・・


何故なら、このマーヤを生み出しているものこそが、絶対なる存在であるからではないだろうか、空からマーヤは出現している

マーヤとプログラムはこの絶対なる存在から非実在として生み出されたものであると云われている


この私・自我はマーヤが時間と空間とオームと素粒子を使って生み出されたマインドの記憶物であり

結果であるものであり、実は存在していないものであると


だからこの私・自我とは記憶の作用であり、記憶作用の結果であり、プログラムの結果であり

単なる記憶の引き起こしている概念であるに過ぎない、私・自我とは存在していないのである

だから、この虚偽が虚偽を、非難することなく、逃避することなく、同一化することなく、言葉なく、思考なくして

ただただ見て、受け入れて、受容するのだ、抱きしめるのだ、そして昇天し消滅するのだ



このとき、虚偽を虚偽と見きることのたゆまない実践の中で虚偽から離れて行くことが誕生するだろうと教えられているではないか


「見るものは見られるものである」と教えられている、




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