火急で緊急時の今だからこそ、すぐにしなくてはならないこと

アセンションを目前に控えたこの緊急時の現在
直ぐしなくてはならないこととは何か
これは避けることのできない、今回の人生での大仕事である
これはまた、アセンションであっても、なくても今すぐ行うべきこととはなにか

ではアセンションとは何を最終目的にしているのか
次元上昇して、私たちがたどり着いた場所、世界はどうなっているのか
そこはどういう世界か

私個人が推測するに
そこは「観照者」のレベルの次元、そこへこの地球は次元上昇するのかもしれない
であるので、私たちがその次元上昇した地球の波動と同一の波動状態でなければそこに住むことが出来ないのは当然である


そのアセンションした「観照者」のレベルとは何か
今回のアセンションで到達した次元とは、具体的にどのような次元であろうか
「観照者」とは「自我という想念が発生する現場を徹底正見して、自我(エゴ)という覆いが取り去られた本来の気づき意識」である、と推測している

通常、私達は「我は神なり」「私は一体である・ワンネスですべてはひとつだ」と分離した自我(エゴ)が
想念で思いこんでいるだけであり
実際には、それは消滅すべき自我(エゴ)が、存続を願って「神の探求」「真我の探求」「愛の実践」という
時間というマインドの枠内での条件付けられた反射行動をしているに過ぎない
それは想念である自我(エゴ)が存続を願って繰り広げている思考であり、想念・反応行動に過ぎず


「我は神なり」「私は一体である・ワンネスですべてはひとつだ」と思っている現在の個人という人格である自我(エゴ)は
依然としてそこにあるので、これらの事を想念しても、実体は何も変わらず
「‘私は神なり’ではなく自我(エゴ)そのものであり分離しており」そこには
「私は一体である・ワンネスですべてはひとつだ」、ではなくそこには自他を分離する自我(エゴ)が残っている


この残存している、偽の私自身である自我(エゴ)がいる限り
BEINGであり最初からそこに存在している「観照者」は意識の座に現れることができない

そういうことであるので
この私の意識の座そのものである「観照者」が自我(エゴ)という想念で覆われている限りは

私達はマインドの次元にいるのであり、これからのアセンションの次元には同調することはできない
この来るべきアセンションの世界は「私たちの内部」を投影しているのであり
私達の内部が自我(エゴ)で覆われている限り、必然的に外部に分離次元の現象世界を投影し
外部に三界という輪廻の現象世界を知覚し、認識する
しかし
私達の知覚する外部の三界の現象界が「内部と外部の区別の結果生じた現象に過ぎない」ことを錯覚として看破されたとき、必然的に内部と外部の分離を超越した観照者の次元がそこにある

そこがこれからこの地球が向かうアセンションの次元である

そこは実現する目的の「なる」世界ではなく、時間の範疇にないところのマインドではない「在る」世界である

そこは「なる」私やその対象としての現象世界の次元ではなく、記憶と時間とマインドを超えた「在る」私が最初からいる次元である

そこはマインドによって縛られた自我(エゴ)そのものである恐怖と苦悩と暴力の世界ではなく、
マインドが正見せられた結果、顕現するところの最初から存在していた自他という分離のない、
個人という人格の存在しない愛という一体の世界である

真実に於いては、アセンションがこの地球に来ていようがいまいが、私たち自身がアセンションをしなければならない運命であるのではないか、
それがこの観照者という「現在の個人という人格」ではない、気づきという意識そのものであり「認識の対象ではない私達自身」である
それこそがこの「在るところの全体である神なる我」がこの現象界に接触している目的であるのではないか

それが、たまたまこの現在の時期が地球自身のアセンションに重なっているだけのことであり、
繰り返されるアセンション自体がこの創造界の目的でもある
しかしアセンションとは「理髪店の看板」のように螺旋状に上昇しつつ、新たなるものはこの現象界に参加して、無限の連鎖を繰り返している

それは現象界の成就と消滅でもあり、真の私の世界とは無縁でもあるといえる

この観照者という真我であるとき、外部世界は内部そのものであり、この世界は既に完全完璧であると言われている

この観照者という真我であるとき、わたしという自我(エゴ)は存在せず、従ってその投影である私たちの認識対象である三界(物質界・幽界・霊界)という現象界も存在していない、という

けれどもこれからのアセンションの次元、この観照者の次元がこれからの地球が向かう次元であるなら
本当は、私たちにとって
アセンションが来ようが、来まいが
私たちが何処の次元にいようが、いまいが
私たちが人間であろうが、人間でなかろうが、天使であろうが、神々や、どのような被造物たる意識存在であろうが(たとえば人間以外の他の三界の幽界や霊界の生物である存在)
生きていること自体の目的であることは、何か
それは自我(エゴ)の終焉である

その目的である自我(エゴ)の終焉には何が必要か

これは、あるがままの自我(エゴ)の動きと、その発生する現場を、自我(エゴ)そのものが、それ自身を
その自我(エゴ)自身である鋭い一体化しない思考・マインドでもって受動的に凝視し
非難せず、受け入れず、思考や感情や想念を停止して、自己同一視することなく
「観察している観察者」は「見られている観察される対象そのもの」である、その理解の中で
逃げることなく、動くことなく全容を徹底的にいかなる時でも正視し直視することではないか

そのとき
そこには求めてもいないのに
それ自体が物語を語り始め、
それは消えていく、といわれている
その消滅過程の中に、本当の真の私を、覆っていたマインドである自我(エゴ)が消えていくとき
はじめから存在していた
真の私である観照者が輝くといわれている

その真の私こそ
観念ではない、知覚される対象ではない
神そのものであり
真理そのものであり
永遠の今、時間を超えたそのものであり
遍在して、全体なる愛そのものであり
私は貴方であり、私は世界であり、私は宇宙であり、私は全体であるところのものであると言われている

しかし
それはこの現在の意識である自我(エゴ)の意識であるところのもの
「なるという時間」が生み出した未来を志向する過去の記憶である思考、
そしてその時間がもたらした記憶である自我(エゴ)であり、その自我(エゴ)という記憶の集積である概念や想念であり
また、その時間というものが生み出した自他の分離という「見る者」、「観察者」「思考者」「体験者」行為者」であり
「輪廻転生している記憶の鎖」「知覚している主体」であり
頭脳の条件付けにより、またそれよりもっと深い霊的な記憶自体
またこれらの条件付けにより、発生している感情や欲望、
また頭脳経由でやってきている「心」マインド
それらには
観照者である、真の私は
思うことは出来ない
想像することはできない
推測することは出来ない
なることは出来ない
達成することは出来ない
変容することは出来ない
悟ることは出来ない
観照者になることは出来ない
愛を持つことは出来ない
愛することは出来ない

それらは
それらマインドの蓄積である記憶そのものたる自我(エゴ)が自ら記憶である自我(エゴ)自身を看破するときに
消えることが起こると言われている

それらが消滅し、本来はじめからそこにあったもの・観照者という真の私が顕現する、と言われている

であるので
私達にとっての一番の火急の緊急にすべき事とは
アセンションのこの時期だからでは決してなく
アセンションがあろうがなかろうが関係なく

今すぐ、行うべきである
これが
自我(エゴ)による自我(エゴ)自体への「受動的凝視」である
それのみが
自我(エゴ)の終焉をもたらし、《思考の隙間》の出現を実現させるのだと思う

それこそ
はじめから存在していた真の私自身、観照者、意識の座自体、であるのではないだろうか



しかし地球のアセンションはいやが上にも
この意識の上昇と次元の上昇をもたらし始めている
だからこそ
いや、それとは関係なく
いま火急に実践しなくてはいけない
それが「あるがままの自己をあるがままに見ること」である《思考や感情を停止して、自我(エゴ)を暴くこと》である
これこそがいま一番の大仕事であると
そのように多くの覚者達は口を揃えて言われておられる


次元上昇をするのは
この現在の地球の人類だけではない
地球の地底におられる方も、
地球での人類以外の海や他の場所に住んでおられる自我(エゴ)ある意識ある生物も


そして
幽界や霊界におられる人類や、他の人類そして、それ以外の天使や神々や幽界・霊界にのみで進化を果たしている
人間以外の私達と同じく自我(エゴ)であるかたがたも
一緒にこのアセンションを迎えている
だからこそ
このことを
私達は人類だけではなく自我(エゴ)ある存在全員が
自我(エゴ)を根源まで遡り、マインドの虚偽を虚偽と見切れるように
手を携えて、一緒に
「あるがままの自己をあるがままに見ること」即ち思考や感情を停止して、自我(エゴ)を暴くこと
の実践をいますぐに開始したい

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