生きるためには死ななければならない


有名なグルジェフの言葉である

「生きるためには死ななければならない

死ぬためには目覚めなければならない

目覚めるためには起こらなければならない

起こるための方法はないこと、道はないこと、

その方法を求め、道を求めている自分自身が虚像・錯覚であることを知らなければならない

既に実現していることを知らねばならない」


①:生きるためには死ななければならない

私たちのこの輪廻の三界は、全て幻想錯覚世界、マトリックスという虚構世界であると指摘されている。
従って、自分たちが生きているのではなく、自分が生きているのだという錯覚を、脳に投影されているだけであるという。

真に生きるということは、自分は普遍であり、全体そのものであり、時間と空間と世界と宇宙と全ては自分そのものであった
として生きることであるという。

そして、その真に生きるためには、その前提条件として死んでいなければならないという。自己の死滅である。

それも単なる死ではなく、完全な自我(エゴ)の終焉という自己の死滅であり、
その為には、この自己と世界というマトリックスを生み出している第1想念を看破し、その第1想念が生じてくる、その根源を正見していなければならないと言われている。

だから「完全な死とは生そのものである」と言われているし、
キリストの言われるように真の復活は死という十字架に於いてのみ実現すると言われる。

この際、肉体や幽体や霊体の死は何ら死ではない、それは死を妨害し、自我(エゴ)の存続を許してしまうことである。
そして、その再誕生は、「真に生きるために欠かせない」死ということを延期させてしまう
と、そのように言われている。


②:死ぬためには目覚めなければならない

そして、その完全な自我(エゴ)の終焉を迎えるためには、その前に必ず真我が覚醒していなければならないといわれている。
自我(エゴ)が終焉して、真我が覚醒するのではなく、真我が覚醒して自我(エゴ)が死滅できると言われる。

何故なら自我(エゴ)によっては自我は殺すことが出来ないからである。
マインドによってはマインドは死滅しないからであると言われる
マインドによってはマインドは終焉しない、思考の死は真我の覚醒の力でよってのみ実現すると言われる
だから、その終焉を迎えるためには、必ず真我の覚醒が先に起こらなければならないという。

真我の「見るものは見られるものである」というところの非二元性の炎、非分離性の炎が、その自我(エゴ)という「私」を焼き尽くすのだと
これを逆に言うと
真我が目覚めてから自我(エゴ)の終焉があるので
真我が目覚めていないのに、自我(エゴ)が終焉することはあり得ないと言うことであり
真我の目覚めは、必ず自我(エゴ)の終焉を引き起こすと言うことである。


③目覚める(真我覚醒)ためには、その覚醒がやってこなければならない、起こらなければならない

真我の覚醒は起こることであると言われている
もし、この覚醒?が何かの自我(エゴ)による行為で起こるとしたら、それは勿論、覚醒ではなく、自我(エゴ)のイリュージョンである事だけはハッキリとしている。何かのチャクラやクンダリーニを無理矢理にいじった故に間違った成果を引き起こし、結果的に
更なる眠りへと誘導されることになる。
だから、真我の覚醒の実践と言うことは自我(エゴ)の範囲内のことであり、それはあり得ないし、結局は自我の望むようになるだろうが、それは自我の強化であり、覚醒でも何でもないところのものに至ることだ。
従って自我(エゴ)の範疇の中でのことであるところの
方法というものは一切無く
道もない。
と覚者たちの言われているとおりで、

その自我(エゴ)が願っている覚醒とは、本当のところは、実は覚醒ではなく、自我(エゴ)の拡大、拡張であり
自我(エゴ)の安定であり、自我(エゴ)自身の存続と、強化を願っているのにすぎないことことを、単に自己に偽って自分は神を求めているのだ、覚醒を求めている、自我(エゴ)の終焉を求めていると、言葉に陶酔し、自己欺瞞しているに過ぎないのだと思われる。
結局全てのこの個体の意識のスクリーンに投影されている、起こることとは、肉体もマインドも全てが外部からやってきていることであると言われている。
その肉体も、マインドも私ではない。起きていることである、と言われている。これは投影された映像なのだ。

良いことも、良くないことも、覚醒も、そして覚醒の逆の錯倒も映像であり、プログラムである。
起こっていることは結果であり、「結果であるにすぎないマインド意識」である私たちの個体が原因についてなんやのと文句を言うことはできない。
その文句を言うこと自体が結果であり、起きていること、映像であるに過ぎない。プログラムだ。


④ 起こるための方法はないこと、道はないこと、その方法を求め、道を求めている自分自身が虚像・錯覚であることを知らなければならない、既に実現していることを知らねばならない

そして最終的には、この起きていることの全てを見て
実は、この起こっていることを受容している私も含めて、全ては虚像であり、投影でしかないことを深く認識するとき
招きもしないのに、それがそっと忍び寄っていることが判明するであろうと言われている。

しかし
その風が吹いてくる為に窓を開ける行為すら、その起こることを妨害すると言われている。
実際は、起こることは起こるように起こる、如何に願っても起こらないことは起こらないし、起こることは願わなくとも起こる。
それ以外は何も起こらない。

そして
このこと、即ち、行為者はいないこと、行為もマインドも単に起きているに過ぎないと言うこと、誰もいないこと
出来事は起こるように起きていることであり、それに関与している者も、それに反応し、願望し、思考し、感じ、それに対して内部や外部で起きていることも、そして、その結果も全ては投影されていることであること、私ではないこと。貴方ではないこと。

それを認識し、深く認識するとき、そこに秩序が有ると言われる。
何故ならこの認識は例え、単なる抽象概念であっても、それは、背後に真実の響が有るのであるから、共鳴を引き起こすと言われている。

現在の段階では単なる、指向性、方向性としての概念の理解であっても、必ずや秩序を引き起こす様になってくると言われる。

しかし
その秩序を願う自我(エゴ)の欲望は、秩序をもたらすことを遅らせる

何故ならその願うことが、自我(エゴ)ではない振りをする自我(エゴ)の欲望であり、それこそが自我(エゴ)の活動であるからである

完全に全てを受容すること、
完全に自己を放棄すること
全てを結果であると受け入れること
全てを私自身の表れとして、愛すること
そしてこの
愛している私、受容している私も結果であることを知るべきである

全ては起きている
起きるように起こる
それ以外には起こらない


そしてその起きていることは
第1想念が投影していることである
と、そのように言われている。


















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