虚偽を虚偽と見ること、その中に真理(神)はやってくる
クリシュナムルティーのみならず多くの正覚者の方々は揃って、そのようにいわれます
虚偽を虚偽と見ること、とは、何でしょうか
その見ることとは何でしょうか
勿論、ここでは思考というものは、見ることを妨げるものなので、ここでは思考を使えません
(とりとめのないお喋りが続いていては見ることが出来ません)
しかし
この現在の意識されている、現在の私、
即ちこの現在意識の意識状態とは、記憶に基づいた意識であり、思考しかもっていません
でも、この中でも
この「条件付けられたマインド」に基づく「記憶」が存在できるのは、「意識の座」というものが在るからです
この「意識の座」がなければ、
そもそも、この「条件付けられたマインド」による「記憶の反応」、という「思考」すら存在することができません
しかし、この「意識の座」は知覚や認識の中身でもなく、認識の対象や、知覚の対象でもないので、
この「意識の座」それ自体を知覚も認識も出来ません
認識や知覚が生じている座なのです
言うなれば
それは
映画のスクリーンのようなもので、
そのスクリーンに「マインド」の記憶が、
自分自身として、「自己」として認識され、全ての体験や記憶が認識されますけど
本当はそれは、自分自身や自己ではなく
自分自身であると「思考している」やってきたところの記憶に過ぎません、
その記憶が自分自身だと思考し、思っているのです
なぜならそのマインドである思考は、それ自体が自分という感覚を持ち、それが故に、仮に存在出来るものであるからです
この知覚や認識、経験を成立させているもの、
即ち「意識の座」に上映されているのもは、
このスクリーンという「意識の座」が在ればこそであると思われます
ですので
このマインドの結果である記憶の私には、直接には知覚や認識や体験することは出来ないけど、
その知覚と経験と体験を支えているものこそ、この「意識の座」であり、
真の私が顕現する器そのものであると思われます
よく、多くの正覚者の方々が言われるように
「湖の波が静まったとき、そこに映し出されるのが正しい月の姿」と言われるように
この湖こそ「意識の座」であり、この波立つ湖面こそ、マインドである私たちの思考であると思われます
私たちのマインドのさざ波が静まり、収まり、停止したとき始めて見るという状態になります
この中に、沈黙が訪れ、その中に、測ることの出来ない、推測することのできない、思うことのできない
未知なるもの……、聖なるもの…、愛であるもの…が招きもしないのにそこにやってきている
と言われております
これは決して、不可能なことではなく
私たちが、見ることとは、思考を使うことではなく「在る」とき、ただ「在る」今に
「思考を使うことは見ることを妨げる」、ということに気づいたとき(マインドがマインドの働きに気づいたとき)
自ずと、その「何もしない」、即ち、「すること」は「在ること」を妨げる、ことに気がついたときに
沈黙がやってくるのだとおもわれます
この、思考ではない「見るこ」との中で、(即ち只今、ただ「在ること」のなかで)
「あるがまま」を「あるがまま」に「見る」とき、それは、訪れる
それこそが
それが虚偽を虚偽と見ることだと、言われているのだと思います
それでは、この虚偽と言うこと、とは果たしてなんでしょうか、虚偽とは一体なんでしょうか
現時点では私は多くの虚偽に取り囲まれていることに、ぼんやりとは気がつきますけど
それがハッキリと虚偽であることに気がついていません
現在のこのレベルの私は、虚偽を虚偽であると正見していません
しかし、正覚者のかたが見た虚偽とは何でしょうか
それは何でしょうか、それは全てこの私という偽の私である実体の中身=思考・マインド
この正体こそ記憶そのものであり、その記憶自身の意識ではないでしょうか
いわゆるラマナ・マハリシの第1想念である自我(エゴ)であるものそのもの、
「条件付けられたマインド」の、それが集まって、つくりだした「記憶集合意識体」の反応なのです
それは果たして、どのような内容なのでしょうか
その記憶が思考すること、思うこと
即ち、その「虚偽」とは何でしょうか、錯覚とは何でしょうか
ですので、虚偽とは
そのマインドの創り出した記憶の反応の意識のことです
そして、それを恐らく数え上げたら、数え上げられないほど沢山に有ると思いますので
そのうち、思いついたものものだけを列挙したいと思います
しかし
この虚偽を虚偽と見ることだけが解放をもたらすのだと、言われているのです
この虚偽を本当に虚偽であることを、頭でなく、知識でなく、思考や、感情や情報としてでなく
本当にハッキリと、実際に分かること
そう思いこむのではなく、信じるのではなく
本当にそうであるから、本当にそれは虚偽であると
肝で、理解で、心底に分かることこそが、一番大切で、それが解放であると
多くの正覚者の方々は言われております
★身体との同一視
身体と同一視して、自分を身体だと錯覚した結果、
自分の内部と、自分の外部とに分割したこと、
内部と外部の区別をすること、
外界とは内部を映しているだけなのに、自分の対象であると錯覚し
外部とは自分を映しているのにも関わらず、
自分以外に、他人がいて、夫がいて、妻がいて、子供がいて、嫌な人がいて、親がいると錯覚すること、
世界が、社会が、自分そのものではないと錯覚すること、これは、記憶というマインドが肉体と同一視した結果に生じた錯覚であり、虚偽であると
★既知なるものであるのに、未知なることとの同一視
神は既知のものではないのに、この既知のものであるに過ぎない、この「思考そのものであるもの」が、
即ち
思考ではないものを求める事も出来ず、知ることも出来ないのに、
自分は神を信仰している、神を求めている、神を思っている、などと、とんでもない錯覚をしていること、
このことの虚偽
★知覚や感覚との同一視
この鏡という「意識の座」に映っているところのものであるマインドの記憶、
即ち「マインドという条件付けられたもの」の、記憶の反応に過ぎないものが、
この肉体の五官を通じて届いている感覚や知覚に過ぎないものを、自分の感覚や知覚と錯覚し、「私の知覚」だと錯覚している、この虚偽
この知覚や感覚は本当の私のではない、
そしてこの「私という記憶」や「私の感覚」は本当の私のではない、
それは、外部からやってきている単なる記憶の反応よって認識された、肉体の情報に過ぎない、
この記憶こそ、転生しているに実体であり、
その実体とは記憶の固まりに過ぎない、
その実体は単なる記憶であり、マインドによって創られた想念の固まりである、それは私ではない、それを私であると思うことは錯覚であり、虚偽である
★記憶との同一視、その記憶の反応との同一視、衝動との同一視、そして記憶本体のマインドである「〜になる」という時間とやその衝迫との同一視
その記憶の固まりである実体の思うことを、即自分の思うことと錯覚することが幻想である
この最たるものは「〜になる」という、時間の過程であると言われる
「良くなるであろう」「進歩するであろう」「神に進化するであろう」「悟りを開くであろう」「愛が実現するであろう」「アセッションが来て次元が上昇し、自分は進化するであろう」「真我実現するであろう」等々、
この全てがこの記憶であるマインドの特徴である、
それが観察者と観察される者、思考者とその思考、見るものとその見られるもの、自分とその対象である他人、などというこの二元性と分離性を生み出した
そして、その二元性を成立させているものの本体こそ「〜になる」という時間である、
これこそ自我(エゴ)である想念の記憶の基であるマインドの最大の特徴である
これは過去である記憶が、これを基に未来を投影するというやり方で、過去や未来を創り出し
思考はこの時間しか思考することしかできない、
マインドである思考は「今」「ここ」を決して知ることは出来ない、と言われる
それは「いま、ここ」を、「神」「愛」などの思考ではないものを、未知なるものを、けっして思考できない
それをこの思考こそが、知ることも想像することも出来ない「今」「ここ」を希求し、それを手に入れんが為に
それを覆い被し、生み出したもの、これこそ時間であり、その本質が「〜になる」という衝動である
★分離性との同一視
現在の自分のこのあるがままにおいて、知覚され、体験される恐怖や不安、暴力
そして、知覚される、この自我そのもの、そしてその中身の感情や感覚、
その、感情や傾向や衝動、思い等は「私に認識される対象」であるのか、
それとも、これは、この私(知覚する分離している主体)そのものであるのか、
これを自分にとっての、何か外部からやってくる対象として思うことこそ、自我(エゴ)の働きであり錯覚である、といわれている、これを自分の対象と思うこと、これは虚偽である
本当は、自分に知覚され認識される、ところの、この内部の恐怖と不安、暴力そして自我(エゴ)のプライド、
欲望やこの自己意識という自己関心などというものは認識される対象ではないのだ、
その自分の対象と思うこと自体が錯覚であり、
その不安と恐怖等それ自体が自らを見るものと見られるものに分離させ
そこから逃げようとしたり
そこに同一視しようとしたり
良くなろうとしたり、自分を超越しようとしたり
非難したり、判断したり、命名したり、分類したり、感情に名前を付けて分かったつもりになったり
戦ったり、良くなろうとして努力したり、押し込めようとしたり
それ自体が、色んな事を実行するのだ
ところが、これこそが、その恐怖などのそれ自身を分離させ、見るものと見られるものという二元性を生み出しているのだ
そしてそれから逃げようとしたり、超克しよう等としたりしている、非難しているのだ
だから、本当はそれ自体の、この二元性がもともとは恐怖や不安そのものであるものなのだ、
即ち、思考やマインドである記憶自体が自らの存続を願って、それを克服しそれからの脱出を願って行っている自作自演だ、これこそ自己矛盾である
この悲しみという記憶自体が、「見るもの」と「見られるもの」の分離性を生み出したのだ
であるので、私たちの内部に見つけることの出来る恐怖や不安、悲惨悲しみ、暴力、プライドなどはそのマインドそのものであるのだ、
そのマインドが蓄積した記憶そのものであるのが、知覚し、認識している本体であり、その対象である
それがこの自我(エゴ)の実体である、
これこそ偽のわたしそのものである
それを何か自分が見ている対象や、自分の認識している対象であると、自分とは別だと思うことが即ち錯覚であり、虚偽である
この恐怖を見ているものが恐怖そのものであるということをハッキリと正見し
このあるがままをあるがままに看破することの中に解放があると多くの正覚者がたは言われておられる
★自他の分離という錯覚
マインドである時間が創り出したものが自他の分離、自我(エゴ)という感覚、である
この記憶が五官からの情報に基づき、五感からの知覚と自己同一化した結果、記憶が錯覚したのだ
自分と妻、自分と夫、自分と子供、自分と親、自分と他人が別々に存在していると、分離していると、錯覚してしまった
この錯覚は肉体との同一視の結果であって、これの身体との同一視こそが最大の錯覚であるという
★自分と神とは別であるという錯覚
神という未知なるもの、その非二元性の中には、もはや、二元性は存在するはずもなく、すべては一体である
その非二元性の中には神以外に、それと別のものは在ることはない、それが非二元性であり、全体性であり、絶対性である
この中には愛が愛に気づいている、又は絶対が絶対に気づいている、神が神に気づいている、真我が真我に気づいている、気づきが気づきに気づいているという状態であること
従って、その中には愛以外は存在せず、愛のみであるように、
その状態の中には内と外の分離は存在せず、絶対である神以外には何者も存在しない状態であると思われる、
その絶対なる非二元性の未知なるものに、それとは別にそれを認識したり、知覚したりするところの既知なる者があるとすれば、それは非二元性である愛の状態、神の状態ではない
その中には「見るもの」はおらず、従って「みられるもの」もなく、神のみがある、なぜならそれは対象のない非二元性という「眼」それ自体であるからである
神が神に気づいているのであって、それを見ているものは存在しない
絶対の体験に於いては神が神を体験している、その中にはそれを体験している自分なるもの、
神は別であるというような錯覚は存在しない、と言われている
それと同じように
その絶対である未知なる状態の中には、
マインドである記憶は存在せず、神と人という分離、真理と真理でないものの分離、実相世界と現象世界という分離は存在しないといわれる
この実相世界と現象世界という分離はあくまで、既知なる現象界側から見た分離の眼、錯覚であり
この現象世界と実相世界という分離こそ、虚偽であり錯覚である、と思われる
そこに於いては
実相世界と現象世界の分離はなく、そこがそのまま、非二元性の完全、完璧、未知なるもの、全体
それこそ
「今、ここ」
「今ここ」こそが非二元性という実相世界であり、普遍であり、全ての宇宙と、全ての時間があるところのもの
絶対
「今ここ」こそが完全、完璧な絶対世界であるということを多くの正覚者は述べておられる
そして、そこへはこの
このあるがままの自分をあるがままに見ることのワークしか、道はない