「私は誰か」が自分におきているか
自分の中に「私は誰か」の声が起きること
自分の心に「私は誰か」の疑問が起こること
この質問が起きることが
観照者が目覚めつつある証拠だと、ニサルガダッタ・マハラジは言います
私の中に、今現在「私は誰か」の質問は起きていません
ですから
今の私は
この今の私の意識は外部からやってきたマインドが作った創作物です。
ですから今の私には真我と繋ぐ観照者の存在は意識に昇っていません
ですから私は、マインドです。
外部のマインドが作り出した創作物です。
この私はあたかも自分の様に思えても、外部から自分に起こっているマインドが作り出した幻想物です。
それが肉体と自己同一視して、あたかも、その自分を自分であるかのように思いこんでいるだけだと思います。
この意識が想念形態となり、実体化して、そしてワサナとなり、観照者である、魂が転生してきた際に、まとわりつくのだとおもわれます。
その魂である観照者にまとわりついた「私という想念の実体」が肉体と自己同一視して「個人という人格」の幻想を生みだし
それが転生しているという錯覚をもたらすのではないでしょうか。
肉体と自己同一視した「個人という人格」の実体は転生できません。それはワサナと呼ばれています。
それは
転生し続けるている、真の私の本体であり、意識に昇らない魂である観照者にまとわりつくのです。
私の過去世の自分は真の自分ではありません、本来の魂である観照者のまわりにマインドによって作り出された、幻想の創作物ではないでしょうか
それは、真の私では無く、まとわりついた創作物を過去世の私と言っているのだと思います
前世の私や過去世の私は、魂である観照者にまとわりついたマインドの創作物、想念の集合実体ではないでしょうか
ですから
前世や過去世の自分は、全く価値がないし、関わるべきではありません、幻想が創りだした物に関わったら、より深く幻想に陥るだけではありませんか。
真我との接点を持っている、魂である観照者の「存在」が、マインドの意識に昇ってきたとき
自分の心の中に、マインドのなかに
「私は誰か」目覚よ!!
「私は誰か」!の声が起こると言います
「私は誰か」の問いが始まると言います
この「私は誰か」の問いがマインドの中に始まることこそ
真の魂・観照者の声であり、問いなのだと言います。
いまの自分の中には
その質問は起きていません
従って
いまの自分は、マインドの創作物です。
いまの自分は偽我です。
今のこの私の実存は、マインドが肉体と自己同一視して作り上げた肉体我に過ぎません。
ですから、あなたのことを見るとき、自分と分離している存在とみてしまうのです。
ですから、あなたのことを見るとき、自分と同じようにあなたを、自分とは分離した肉体存在と誤解してしまうのです
ですから、あなたのことを見るとき、自分と同じように、自分とは分離した実体・個人・人格と錯覚してしまうのです
私はあなたを見るとき、自分とは別人格と思ってしまいます。
私はあなたを見るとき、自分とは別に存在する個人であると思ってしまいます。
これが分離したマインドの私です。
そして、だからこそ
私が神を見るときさえ、自分とは別に存在する対象だと錯覚してしまいます
この二元性、分離性のなかには神はいませんし、観照者もいません、まして真我はおりません、この分離したマインドの中にはマインドしかないのです
ですから二元性や分離性の中で
分離され、二元性である私が
対象として、認識された神や、あなた、そして私はマインドの創作物に過ぎません。
いくら神と対話しても、分離の対象として二元性の中で、この分離した私が、神のあなたと会話しても、その神はマインドです。
非二元性であり非分離性である神には、マインドという二元性や分離性では認識できないのです
真の真我に至るためには
魂である観照者が自分の中に生まれている必要があります。
観照者こそ真我への門であると思います。
この観照者の炎の点火は、このマインドの創作物である「私」に出来ることではないとニサルガダッタ・マハラジはいいます
偽我である私や、肉体我である私には道がありません、方法がありません
このマインドにその点火がやってくる必要があります
それは聖なるものの恩寵としてやってくるのだとニサルガダッタ・マハラジはいいます
それは「本物のグル」の愛だといいます
マインドで在る私に出来ることは
何もありません
全ては起こること
全ては全託です
自分が死ぬことも(肉体がではありません)
観照者の炎が点火されることも
自分が感謝出来ることも
全ては起こること
全ては全託です