世界を対象と見るときそれはマインドが覆っているのだ
覚者の方々は常々このように言われています
世界が自分の外部に見えるときそれはマインドが意識を覆っている
宇宙を自分の見る対象と思っているとき、それはマインドの思考であって私の意識ではない
子供や親や隣人が自分そのものではないと思えるとき、それはマインドが意識を覆っている、それは真の私が見ているのではない
会社の同僚を自分ではない、と、思えるときそれは、そのとき内部はマインドである、本当は私はその同僚である
他人が自分自身でなく、目の前にいるように感じられ、自分とは別の他人と感じられるとき、それはマインドが意識を覆っている、真の私自身は他人そのものである
自分を肉体と思うとき、そのとき、そう感じているのはマインドがそう思っているのであり、本当の私は肉体ではない
私をチャクラやクンダリーニなどが上昇するこの精妙なシステムに関連していると思うとき、そこはマインドの領域であり、マインドが支配し、それに覆われている領域であり、二元性の状態の意識である。
それに反して、真の私は、既に愛そのものであり、既に悟っており、既に完全であり遍満しており、そのような精妙なる身体ではない。私は幽体でもないし、霊体でもないし、魂でもない。
私が肉体の感覚を持ち、世界を外部と知覚しているとき、その感覚と知覚はマインドが、意識を覆っていて、この個別の肉体に感覚を縛り付けているのだ。
真の私の知覚は回りにいる他の人たちの肉体の感覚も、そばにある草や動物の感覚も、私の感覚として知覚として感じられる。
従ってこの自我(エゴ)である人格の特定の肉体感覚は(個人の)マインドの起こした感覚であり、真の私の感覚ではない、真の私の感覚は宇宙がすべて私であり、世界は私自身であり、貴方は私自身であり、私の中に世界も宇宙もあり、貴方は私として感じるのだ、そして私はその樹として感じ、その風として感じ、その蟻として感じ、その自動車として感じ、その小鳥として感じるのだ。
それに反して、私が記憶を持ち、感情として感じ、理性として感じ、個別の人格として感じるとき、それはマインドが私を覆っているのだ。
私がグルを、神を、自分とは別の人格・神格として感じるとき、思うとき、比較するとき、それはマインドは私をおおって個人という人格の錯覚を起こしているのだ。
正しくはグルと私は分離していない、神とは私である。
だから私は、記憶ではない、私は感情ではない、私は理性ではない、私は人格ではない、私は個人ではない、私はこの名前を持っている自我(エゴ)ではない、私はあなたである。
だから私はグルであり、私は隣のお爺さん、子供でもある。私は誰とも分離していない。
それなので、眞の私には貴方が私と感じるのだ、真のわたしはだから貴方である、そこには個人は何処にも存在しない、自他の分離意識は微塵もない。
もし私が親や子供を自分としてではなく、或る肉体を持ち、或る記憶を持ち、或る個性と、人格を持った自分以外の対象と見るとき、私はマインドによって覆われている。
真の親は私自身である、真の子供は私自身である、一つである。一体である。
私が幽界や霊界で、また物質界でも魂という分離した実体を見るとき、感じるとき、そのときそれは、意識はマインドによって覆われている。
真我のなかには、魂は存在しない。幽界や霊界は存在しない。それは現象世界だ。
真我の私は魂ではない。
幽界や霊界の個別的実体は、真我の眼には非実在であり、それは幻想であるのだ。
それは想念が創り出した、非現実の現象世界であり、このあるがままではない、あるがままは在るのだ。実在であるのだ。
分離性、二元性、個別性、自他の分離、我と汝の分離、「見るものと見られるものの分離」、自分と世界の分離、宇宙と自分の分離、自分と神との分離が感じられるとき、それは真の私の次元ではない、知覚ではない。真我の知覚ではない。
真の私には世界が自分の中にあり、宇宙は自分の中にあり、貴方は私であり、「見るものは見られるものである」であり、観察者は観察される者であり、外部は内部であり、そして内部は外部であり、非二元性、非分離性、全体性、「我は神なり」「神は我なり」が全てである。
私が輪廻転生している魂と感じるとき、それはマインドの創り出した意識界という現象世界・非現実の虚構であり、それはマインドが意識を覆っている状態である。
それは、より精妙なるマインドではあっても、むしろ更に巧妙なるマインドの幻想であり、更なる虚構に陥っていく。
だから真の私は魂ではない、私達は輪廻転生している実体ではない、それはマインドが創り出したシステム上の創作物、想念の凝縮であり、真我ではない。
真の私は輪廻転生していない、生まれていない、死なない、遍在している空間そのものである。
私が時間と空間を意識し、過去世を自覚したり、来世を分かるとき、
又空間を自分以外の外部にあるスペースとして感覚されるとき、
その知覚はマインドが引き起こしている、マインドの感覚であり、真我の感覚、知覚ではない。
自分は輪廻転生していない。
従ってその自分の過去世はマインドが創り出した自我(エゴ)という想念サイコノエティック体の記憶であり、来世の私も真の私ではなく、創り出されているマインドの創作物、即ち輪廻転生している実体である自我(エゴ)であり、そのエゴこそ、マインドの錯覚から生み出した記憶と想念である。
真実は、真の私には過去世もなく来世もない、また宇宙に関しても自分の中に宇宙があり、空間が自分の中にあるのであり、外部にではない、自分は空間そのものであり、遍在しているのだ。
それなので
愛を与える相手が、存在するとき、そのときの愛しているところの自分というマインドの創作物がそこにおり
これは愛ではない、愛の中には与える相手はいない、自分もいないのだ愛だけがある。
愛だけが遍満している。
とそのように多くの覚者達は言われる
上江洲義秀先生もニサルガダッタ・マハラジもクリシュナムルティーもラマナ・マハリシもババジも
そのように説かれているのだ