瞑想とは
まず静かな環境で、心を静かにすることが大切だと思う
そのためには
当面のこの現在意識を支配しているマインドが、色んな問題から解放されていなくてはならないので、
物質的な問題
仕事の問題
家族の問題
肉体的な問題
経済的なこと、精神的なこと
それらの問題から
ひとまず
離れた精神状態が必要なのだと思う

そうして
マインドが表面的に静かになること
これが一番大切だ

そうすれば
意識の焦点がそれらの問題に行かずに
感覚に向かう

外の音楽に、庭の小鳥の囀りに耳を傾けよう
小川の小さなせせらぎに、心を落ち着かせよう
山々の樹木のこすり合う交響曲に耳を傾けよう
そして
意識の焦点を
徐々に内側に向けよう

そうすることによって
瞑想をする
主体が観察の対象になっていく

その瞑想をする主体こそ
マインドだ
私というエゴであるものだ

ここから

この静かな空間で
そっと目を閉じよう

我々の感覚を外部からの絶え間ない情報にされされていたものを
内側に受動的にするのだ


ただ見ているようにしよう
観察者をまず発見するのだ
観察者を観察するのだ
何事にも左右されない観察者のようにただ観察する、自分を。
観察している自分を観察するのだ、見るのだ。

ここから始まる

その次に、注意をするものは呼吸だ
呼吸は聖なる命と私達を繋いでいる
感謝の気持ちが自然とわき上がってくるに違いない

そして
ただただ、呼吸を感じる
呼吸に感謝する
呼吸をじっと見続ける

身体に感謝する
生かされていることに感謝する
今この場にあることを
ただ感謝する
理由を付けないで、ただ感謝することが大切だ。

瞑想は
自分を観察することから始まる
見ることから始める
そうすると
まず
じっとしていられない
何かをしようとする自分がいることに気づくだろう。

瞑想とは自分が何かをすることではない
自分がすることは全てマインドの領域である。

瞑想とは自分の行うことの奥にある自分である主体に、自我に、エゴに気づき、
エゴを抱擁することなのだ。

まず、そのレベルから始めよう
自分が行うことは全て、マインドのレベルなので
マインドの分離という、分離感に支配され、捕らわれ
その大根本のカラクリに支配されてしまう
だから
自分からは何もしないことだ
ただ何かをしようとしている自分と友にいること、共にいること、そして
じっとしていること


…離れていく
…遠ざかっていく
…この観察している私から
その私達が遠ざかっていく
捕らわれないように、起きている現象に捕らわれず
流れていく。

マインドを
想念を、感情を、そして思考を
流れるままに、
そのわき上がる現象に捕らわれてはいけない、
捕らわれたらそのままでいい

…そうして、また流れていく。

自分からすることは、自分が行うことは、
この三界という物質界、幽界、霊界の輪廻の本質である、マインドというものの範疇にあるのだ
全て、自分から行う瞑想は、その範疇に入ってしまうということを理解しよう。

この三界の輪廻を支えているものはマインドなのだ

それは丁度、この地球に本からある大自然に我々人類が文明を築いて、その地球を被っているように
私達の意識というものを、このマインドが深く被ってしまっているのだ

瞑想は気づきなのだ
このマインドの存在に気がつくことなのだ
実は自分というものが、この現在意識そのもの、我々の内面で知覚できるものが内側も外側も、これがすべてマインドだったら吃驚するだろう
これがカラクリなのだ
私達のコノ支配のされ方は完全に近いもので、殆どだから本当の意味で瞑想というレベルには行かないのが現実なのだよ
この中間に在る次元は同じくマインドのより精妙な次元で、その支配もより完璧だと思う
この中間は幽界や霊界のレベルで、マインドがよりハッキリと、そしてそぐに現実化してしまう領域で
もし私達が、そこに焦点を合わせてしまうと、そのレベルのエネルギーで支配されてしまうだろう
だからそこの領域に視点を合わせる必要はない
間違ってもこの世界を見る超感覚のレベルに留まってはならない

さあ
もっと先に進もう
瞑想は自分が行うことではない
自分が行うことは全てマインドの領域であり、マインドのエネルギーに翻弄される
瞑想は起きること
瞑想はやってくるのだ
というより
最初から
そこにあるもので、ただ気がつかなかったのだ
しかし、今の私達には手が届かない


「無門関」

無という関所を門にして内側からしか
そこの通路は開かれていないのだ

だからこそ瞑想はある
そこのレベルは
自分は入ることは出来ないのだ
自分が死ななければ入れないのだ
そこの門は
私は入ることは出来ない
自分が獲得するものや手に入れるものは何もない、逆に自分の持っているもの、財産、知識、転生で積み重ねてきた全てを捨て去り
そして
その捨て去っていることをしている「私」・私そのもの、主体が死ななくてはならないのだ、この無という関門を通過するのは
私ではない、私はこの無門関を通ることは出来ない
主体は、入ることは出来ない
そこから先は
このマインドが作り出した「私」「エゴ」「主体」「自分が肉体と思っている主体」「自と他が分離していていることの認識」は
ここから先の
本当の瞑想には入れない
ここから先の瞑想は
自分は一切存在しない、自分という分離している認識をしている主体がいないのだ
瞑想は起きるのだ
瞑想はやってくる
無門関がやってくる
だから
いま観察している主体の奥にある非分離性に非二元性に無我であるレベルに
焦点を向けよう
観察者の観察にかからない(これは分離である)観照者に
焦点を合わせよう
真我の旅はここから始まる




































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