「私は誰か」と訪ねているのは誰でしょうか
昨夜、「私は誰か」と訪ねているのは誰なのでしょうか?とそう質問されてしまった
また、何故「私は誰か」と質問するのでしょうかと
さらに、何故この「私は誰か」の質問が起きるのでしょうかと……。
これは自我(エゴ)である久保栄治にとっては答えるのが厳しい質問であった
このマインドである久保栄治という自我(エゴ)である「マインドの自己」にとっては答えることの出来ない質問であった
現在は一時休止状態になってしまったが、非常にレベルが高く、真剣で熱烈でかつ知性的であった「672夜」さん
(http://www.672ya.com/)だったらどう答えるのであろうかと一瞬思ったが、今は連絡も取れず、教えて頂くことも出来ず、どうしようもない
答えは、この胸のハートの奥にある沈黙に聞くしかないのではと、そのように思った
きっと、この作り出された自我(エゴ)である久保栄治は百の答えを考え出すことであろう
が、しかしそれは真の答えではないことだろう
マインドがこの頭脳を使って「私の答え」として、いろんな概念を差し出すではあろうが、それは沈黙からの答えではない
またこれは、久保栄治の考えた答えである、とそう思わすだろうが、それは久保栄治の出した答えなのではない
「久保栄治という個人だ」と考えている「記憶の塊」がそのように信じているだけで、実際に起きてることとは
この久保栄治のものと思わされている「有る特定の頭脳」を通じて、根源からマインドを経由して「或る思考」「或る概念」「或る答え」がやってきているだけである、と、そう信じている
であるので、この久保栄治という名前を与えられた、或る特定の頭脳を通じて、流れてきた「答え・思考」は、その条件づけられているこの頭脳が認識し、知覚したと言うことからして、思考であり、思考を超えている真のハートからの沈黙の答えではない
即ち、この答えは、久保栄治という名前が付けられいる、或る特定の頭脳によって認識することができたことからして、これは本物の答えではないのである
真実の答えは、条件付けられたこの頭脳を経由し、その結果生み出された自我(エゴ)であるこの思考では認識できないし、経験できないし、体験できない、
真実の答えは、思考ではない意識から、気づきからの沈黙からであり、未知なるものからであり、
現在のこの人類の封印されている頭脳では、知ることも、見ることも、知覚することも、体験することも、経験することも出来ない
だから、逆から言うと
この現在の封印されている頭脳によって、認識できるもの、即ち、平たく言うと、この「マインドの思考の私」によって知覚し、体験し、経験し、認識できるものとは真実ではない
この答えであるものとは、この私によって知覚される限り、経験される限り、対象として二元的に観察される限りは、これらはすべては真実ではない
真実は
真実の答えは
この時間という過去現在未来という枠の中にあるものにとっては、理解できない、この過去現在未来の枠にあるものとはマインド・思考であり、「記憶の塊」であり、分離した観察者であり、見るものであり、このマインドが作り出した個人であり、人格である
現在の制約され、条件付けられている頭脳では、時間である過去現在未来しか認識できず、「今」というハートの奥にある「沈黙からの答え」を理解できないのである、この頭脳の周波数と構造が変わり、思考が停止して、沈黙である気づきを受信できるようになれば、理解できるであろうが…
これを逆に言うと、自分が理解すること、体験すること、知覚することのすべては、この頭脳が思考という形態しか受信できず、この思考という過去現在未来に制約されている限り、知覚することはすべてマインドの枠内のものでしかないと言うことである
にもかかわらず、○○○によって頭脳は手術を受け、高次の意識や気づきを受信できるようになったと言うが、果たしてそうであろうか、その頭脳が変わっていないということは、依然として自他の分離があるということ、神を自分以外に認識していること、時間と空間の枠内に縛られていること、即ち将来があると思っていること、内部と外部の分離があること、高次と低次の分離があると錯覚していること、「〜なる」こと、進化や真我覚醒があると思っているなどのことからして明らかであるし、本当のこの頭脳の条件付けの打破とは内なる真我からのみ起こることであり、することではない、分離した二元性の意識界の領域内での行えることではない
だから○○○をして変わったというが、思考である自我(エゴ)は相変わらず此処にいる、少しも変わっていないのだ
この分離した、時間の世界を見ているものはマインドであり、偽の私なのだ、偽の私が自他の分離を投影して、私という内部と世界・宇宙という外部に分割しているのだ
そして、このマインドの状態とは
「個人」「人格」「特定の久保栄治」即ち「身体(精妙体も含む)と同一化しているもの」であり、私という他から分離している「個人・人格」と思考している実体即ち記憶である、輪廻しているものはその記憶の塊である
これが、この記憶に過ぎないものが
進化しよう、探求しよう、良くなろう、真我実現しよう、瞑想しよう、あと何回転生したら自己実現するのだろう、等と錯覚しているのであるが、これは単なる記憶の塊に過ぎない
そして、更に根源によってプログラムされ、運営されている、「記憶の塊である思考」の自分がこの人生を生きていると錯覚している
に過ぎない
自分が輪廻している
自分が瞑想している
自分が良くなっていく、進化していく
自分が真我に至る
自分が涅槃に至る
自分が宇宙意識に達する
自分が神と合一する、等と思考し、その果てにはこの「私は誰かと尋ねているものは誰か」という答えに答えられるのだと錯覚しているのだ
この輪廻し、良くなり、進化し、真我に至り、涅槃にいたり、宇宙意識に達し、神と合一する、と錯覚しているその自分とは一体誰なのか
この常に「〜よくなる」とおもっているもの、時間の枠内にあるものとは一体誰か、
そして、この私という錯覚を生じさせているものは何か
この行為もしておらず、自由意志もない自分を、さも、行為している、自分が生きているかのように思わせ
肉体を離れた後、輪廻していると思わせ、良くなっていくのだと思わせてるものは誰か
その錯覚は何処から起きているのか、この錯覚を起こさせている時間はどこから生じているのか
肉体を離れた後、輪廻していると思っている私を、そのように思わせて、プログラムし、運営し、司っているものとはなにか
生まれ、死ぬと錯覚している偽の私をプログラムしたものは誰か、肉体と同一視という錯覚をおこさせている者は誰か
何が錯覚するようにプログラムしているのか、
錯覚自体が錯覚している、マインド自体が錯覚している、時間自体が錯覚している、夢自体が夢を見ている
これこそ「私ではない私」を維持しコントロールしているものではないか
これこそ「私を詐称している私」を生みだし、コントロールしているものではないか
この時間を生みだし、輪廻を生みだし、偽の私を生み出しているは根本的な時間であり、思考であり、マインドである
そしてこのマインドは真我から生じている
真我という無限なる空からこのマインドという根源的な自我(エゴ)が生じていると覚者は言われる
そして、実際は何も起こっていない
目を覚ましなさい、実際は外部もそして内部も夢である、
実際はすべては無限なる愛であり、空であると
自分も、この世界も、そしてこの自他の分離も、そしてその錯覚を起こさせているものも、実は真我からやってきているのだ
と覚者は言われる
真実の私、真の私とは全体であり、分離しておらず、命全体であり、時間を超え、今であり、あらゆる空間に遍在していると言われる
それは既に完全完璧であり、全体であり
それは既に真我そのものであり
それは既に真の私であり、それであり、愛であり
それは既に宇宙意識であり
それは既に神であり
それは時間を含まない、思考を含まないと
それは既に今・此処に在ると
それは空であり、無限であり、名付けることの出来ないものであると
それこそが真の私であり、時間の枠の中で実現したり、到達したりするところのマインドではない意識であり、気づきであると
上江洲義秀先生はマインドとは神の道具であると言われる、現象界という夢を起こさしているマインドとは、神の道具であると
このマインドとは自他の分離であり、見るものと見られるものとの分離であり、良くなると錯覚する者であり、瞑想をして真我に至ろうと錯覚する者であり、
この中身は恐怖、暴力、悲しみ、不安、憎しみである、分離、二元性である
そしてこれが輪廻を起こしているものの実体であり、これが輪廻している個人という錯覚、進化している私という錯覚を生み出しているもの、即ちマインドである時間であるものである
これは真の私から生まれた
そして、それらは真の私ではないものである
真の私は「今」、既に「此処」に「在る」と言われる、
思考と時間を超えて