魂という語彙について



魂という言葉は大変に誤解されやすい。

使う人によって全く異なる意味を、与えられているからである

極端な話では、ワサナ(過去世の人格の残滓)である想念形態のことを称して魂と、言っている場合もあるし
自我(エゴ)である「記憶の継続体」であるところの、輪廻しているサイコノエティック体を魂と言っている場合もあり
その深部の記憶体であるコーザル体を魂と言っていることもあり
この現象界の書き込まれているプログラムのことを魂と言っていることもあるが、何れも真の意味では魂(Soul Selfepignosis)ではないと思う


それは、私と言う言葉が、「真の私であるもの」と、一方では、「全く私ではないもの」を指して同じように「私」と言うように、この魂という言葉も正反対のことを指している場合もあるので、慎重にゆっくりと
魂(Soul Selfepignosis)とは何を指しているのかをここで、私なりに考えていることを明確にしておきたい。

この私の個人的な解釈では
魂(Soul Selfepignosis)とはスピリットなどとも訳されているように、「絶対本質」である「存在」の「全体の部分」又は「部分である全体」即ち「モナド」といわれているものの延長ではないかと推測している、
このモナドが現象界のマインドに接触した部分のことを指していると思われる

この際に非常に注意を要することは
分離であるこの次元世界の認識形式であり、マインドが使用している知覚の方式である時間と空間、内と外という概念、私と言う概念は、(即ち一般の常識というものは)完全に誤りであることをまず理解しなければならないと思う

まずはじめにそれは、空間ということに関して言えば、
実際には全ての次元空間が重畳していて、距離は存在せず、
最小の素粒子の中に全宇宙が有るように、全宇宙は全てのどんなものの中にもすべてのものが同時に存在していると言われていることであり、ここでは従来のマインドによる空間の概念は全く通用しない。

時間にしても、
過去から現在を通過して未来に流れているものではなくて、今此処に同時に、過去も未来も一緒に存在しており、自分という意識が移動しているのを、時間が流れていると錯覚しており、移動することなく自分が偏在する全てであれば、全ての時間がこの内にあることになる。と言われている。
従って現象界の時間概念は空間と同じく、この次元のみの認識であるに過ぎず、実際は仮象にすぎないと言われていること


また内部と外部ということ、に関しても
内部という主体、外部という対象である客体は、本当はこのように主客の分離はしておらず、(自他の分離はなく)実は主体=客体というペアになっており、内側は外側、外側は内側、外部は内部であり、外部は内部であると多くの覚者によって言われているところである


そして、自我(エゴ)というものに関してであるが、これは何故発生しているのであろうか、
実は自我(エゴ)とは、全く以て実の私ではなく、この現象界という投影されている映像を成立させ維持させるが為に、付与されている映画の登場人物であり、
そのAさん、又はBさんという登場人物が、このスクリーンに投影されて輪廻を繰り返しているように見えているだけで、
実際は単なる映像であり、スクリーンという、真の私の意識上に現れている投影に過ぎないと言うこと、を教えられている

そして更に、そのスクリーンというものも個人のものではなく、全体そのものの「気づき」というスクリーンであること。

だから、どこにも個人や人格や自我(エゴ)なる私は存在しないこと、即ち分離や断片はありえないこと、全体だけがあること
と、言われている。

そのような前提があってこそ、そこで始めて、魂(Soul Selfepignosis)というものの言葉の意味を調べることが出来る地点に達したと言えるのではないか

私は魂(Soul Selfepignosis)という言葉に次のような内容を当て嵌めている

魂(Soul Selfeoignosis)とは

真我、真の私から分離していない観照者である「気づき」、即ち「意識の全体性」の、この現象界に於ける接触点であると、

平たく言うと、絶対なる「愛」が現象界であるマインド次元と接触している鏡面
即ち「気づき」又は「意識」と呼ばれる状態(存在)と、マインド界との接触点であり

このマインド次元界と接触したモナド(Holy Monad)のうちの接触部分である魂(Soul Selfepignosis全体であり非分離の)が、

個別的肉体と自己同一視し、
誤って自分を制約されているこの肉体であり、
この個別化している自己であり、
そこの頭脳に流出(出入りしている)している思考感情を自分が思考し、感情しているのだと錯覚しているマインドに覆われてしまったのだ

だから魂(Soul Selfepignosis)とは

正確には、このマインドという時間、空間、分離の次元に接触している真の私の接触点であり、真我のその一部である
と、思われる
だから魂(Soul Selfepignosis)とは時間や空間でもなく、分離しておらない私なのだということ

それを

魂(Soul Selfepignosis)←観照者(Holy Monad)←真の私・真我(Holly Spirit Logos)←絶対存在(Absolute Being)と推測することも出来るが

ここで最大の間違えやすいことは、魂とは全く以て、個別的な存在や、分離した自我(エゴ)ではないことであり、良く世間で言われている個人や人格などと言う、或る特定の個別的な断片存在ではないことである

これはマインドというものが、主体と客体の分離そのものであるので、特定の進化する個人や人格、何かに到達し成就する個別的実体であるかのように、直ちに思考し、考えてしまうが、全くそのマインドの認識では魂を理解することはできないと思われる

此処では、全く個人という分離し、個別化し、断片化した意識実体は存在していないのである
それが魂である、と言われている

それがこの現象次元に焦点を合わして顕現した意識の全体性の接点部分
即ち魂である、意識の全体性である

そして、この接触点の魂は
マインドに覆われてしまった

このマインドの特徴とは
特定の肉体に焦点化した結果、自分を肉体であり、かつ個別で、個人で、全体と分離しているとの錯覚をする本体であり、無知と呼ばれているものではないだろうか。

何故なら、そこには
個別的な肉体もあり、記憶の積み重ねである私と言う自我(エゴ)もやってきており、出来事は起こっており、個人的なカルマや運命や輪廻転生まで有るように見えるからであり、そうして挙げ句の果てに自分は進歩し、神に至るのだと錯覚してしまうのだ


しかしそれらの「〜になること」とは錯覚である、と言われている

真の私である魂とは、意識の全体であり、個人や個性や人格ではない。自我(エゴ)ではない。
自我(エゴ)とはこの肉体やそれの継続である諸身体という「場」に与えられた記憶であるに過ぎない

魂(Soul Selfepignosis)は記憶ではない、記憶の集合体や記憶の継続体でもない

魂(Soul Selfepignosis)のふるさとは真我であり、「絶対なる愛そのもの」である

と、言われているのである。

この意識は魂(Soul Selfepignosis)のものであり、魂(Soul Selfepignosis)の実体でもある

しかし

意識とマインドを混同してはいけない

意識は魂(Soul Selfepignosis)に属するものであり、この意識を個別されたもの、分離したものと錯覚をすることがマインドであり
分離している私と言う感覚こそ、魂(Soul Selfepignosis)である意識(全体性)ではなく、マインドという分離しているものの思考である


思考と意識は違う

観念や概念や時間や空間や知覚は意識ではない

これらマインドと意識を混同せず、意識とは分離できない全体であることを理解することが肝要であると多くの覚者は言われる

だから意識はマインドとは違う

何故なら意識は魂(Soul Selfepignosis)の本質的なものであるからであり

その源には「気づき」であり、非分離性、非私、非二元性である真の私が在り、根源の根源であり全てである至高なる御方が在る

と言われているではないか



























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