三段階の私
三段階の私が述べられている言葉がある
「私は肉体ではない、
私はマインドではない、
私は存在しない、
私は想念である」
@私は肉体ではない
この段階での私とは何だろうか、
肉体ではない私とは
肉体と同一視していたわたしとは何だろうか
その同一視は錯覚だといっている
この段階で示されている私の中には多くのレベルの私が含まれている、
全く違う段階の私も含まれている
・一つは輪廻転生をしている主体としての魂レベル(たまゆら)レベルのわたし
・もう一つは輪廻転生をしていない認識の主体ではない、全体性の、
真我レベルの私がそう言っているのかも知れない
A私はマインドではない
この段階での私とは何を指しているのだろうか
マインドではない私とは一体何なのか、
現在の私、いまこの文章を書いている私はマインドであるので、
当然、意識と、認識と、知覚と、思考と、感情と、記憶の主体で分離性そのものであるが
この現在の私であるマインドは私ではないと
言い切れる私とは何を指し示しているのか
この現在の私である主体は魂であり個別性である、それはマインドである、
マインドという言葉が嫌なら心であるといえる、
だからこのAの段階の私とは
私は心ではなく魂でもないと言っている
心でも魂でもないわたしとは
個別性ではなく、人格でもなく、個人でもなく、輪廻転生する主体でもない
それは主体ではない、そして主体が生み出した客体でもない
主体が客体を生み出したのである
だから主体である見るものは客体である見られる自分なのだ
その主体という錯覚を生み出した想念、根本無明
時間空間、二元性、主体という想念の発生する根源へと当然それは導くと思う
それが真我を指し示している
B私は存在しない、私は想念である
最後の段階は
この魂である主体
輪廻を繰り返す主体は、根本の想念であると言うことが看破される
勿論、この段階の記述は、
私はマインドであるので、意識も出来ず、想像も出来ず、知覚も出来ず、認識も出来ず、思うことも出来ず、知ることも出来ない
しかし、ここで述べられていることは
この私という根本の主体が生み出された想念とは
主体という根本の想念であると思う
真我というものは
全体性、
普遍性、
絶対性、
非二元性、
時間と空間を超え、
あまねく一切に遍満し、
一切を支えている根源、
だから
この三番目の私という記述は
この真我を指し示しているのだとおもわれる
そこには
その真我には私という「見るものは見られるものとは別である」という分離性はない、
完全な世界、
全ての全て、
宇宙の宇宙、
無限の無限、
この真我は地球を超え、
太陽系を超え、
銀河系を超え、
この宇宙を超え、
あらゆる次元を超え、
あらゆる宇宙を超えている、
そしてあらゆる時間と空間をこえて
実在する
だからこそ
ここの私に至ったとき時間と空間が無くなり、
時間は存在しないという言葉が発せられるのだ
そしてこの段階に至ったとき
過去も
未来も
現在もなく
全ては今ここにある
という真実が発せられるのだ
そしてこの段階では私という根本的な概念はなく
生まれてもいなかったことが看破されるのだ
これが覚醒である
夢から醒めた状態であるとおもう
三界という現象界は幻であった、という認識に至るのだと思われる
真我とはこのBの段階のレベルであり
私は全てであり、
一切である、
宇宙を超え、
あらゆる次元を超え、
全てを超えている
そして
その私が存在しないときもなく、
存在しないところもない、
過去
現在
未来の全ての時に、
あらゆる次元と
あらゆる宇宙に遍満している「存在」そのものである
ということだと思われる
真我が
次元と
時間と
空間と
宇宙と
地球を成り立たせているのだ
そして
それは夢なのだ
だから私は第4番目のもの
「存在そのもの」というものも在るのではないかと理論上は推測できる
この宇宙や次元を夢だと言い切れるもの
それが
真我そのものではないか