私は見ていない
何故なら見る目がないからだ

私は見ることが出来ない
目がないからだ。

私がみることは全て分離のみで
自と他の分離、
それがもたらす、暴力、恐怖、不安、批判、推測、判断、決意、ジャッジメントなど等々。
そして、
それに伴い良くなろうとすること、悟ろうとすること、をわたしは行う、闇の中で
そして見ようとする。

しかし見ることは出来ない。

何故なら私自身が分離であるからだ。
私には目がないのだ。

この思考と
想念と
感情と
正しくない五感と
概念・言語・言葉が自他の分離の上で成り立っている

私は分離である。
見ることは出来ない。

私のこの目は分離しか見れない
この目は分離である。
私そのものが分離であるからだ。


この見る主体は
分離である。
この認識の主体は
分離である。
この体験の主体は
分離である。
幾多の転生を重ねてきたこの私は
分離である。

マインドである、この私の本性で根本である、ところのこの分離は
分離を乗り越えることは出来ない。

現象世界は分離である
分離は分離を乗り越えることは出来ない。
分離が虚偽であり
分離が存在していなかったことを
分離が思考であり、概念であり
私を作り出していることを
そして
私が主観的に見ているこの現象世界を分離が作り出していることを
その分離が私を作ったのだ
それらすべては
見られなければならない、見なければならない。
正見されなければならない。

それなので
私が見るものは全て分離である。
私が見ることは正見ではない。
私が見る行為は分離から離れることは出来ない。
従って
真に見ることは起こる必要がある
この真に見ることが起きるためには

見なくてはいけない。

この見ることを支えている
見ることの目そのものを

これは盲人が見ようとしていることに、似ている
しかし、盲人も見ようとしなければ
見ることは起こらない
見ることは起こる

そして
この見ることは
実相を照らす。

見るものは見られるものであることを
最初から分離は存在していなかったことを
最初から自他は分離していなかったことを
最初から私は存在していなかったことを
最初から転生は行われなかったことを

見ること
この見るは
起きる

だから

何もしない

私がすることは
私が求めることは
私が行うことの全ては
分離からである。

だから何もしない。

離れていく、私から。
離れていく、私が求めることから。
離れていく、私が願うことから。
離れていく、私がすること全てから。
離れていく、思考から、想念から、言葉から、概念から。
離れていく、私の体験や経験から。

離れていく

ただ離れていく

無に入っていく

空に入っていく

何もないに入っていく

何もしないに入っていく

ただ気づいている

ただ見ている

ただ静寂の中に
座っている
私は概念である
わたしはい・な・い。

何もない
何もしない
ただ


見る

見るものは見られるものである
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