私とは非対象であり対象ではない・マインドの偽我にとっては未知なる純粋主体だ
(知覚と認識は私ではないマインドの属性だ)
エレブナのダスカロスは云う
エーテルダブル
という今生の物質界と、幽界と霊界の為の、其の各ボディー(肉体・サイキック体・ノエティック体)を維持し、支えているところの複体(エーテルダブル)というものの中を流れている(チャクラは肉体やサイキック体やノエティック体をそれぞれ活動させ、支えている各種エーテルエネルギーが流れるエーテルダブルという複体のそのエーテルエネルギーが流れている通路であるという)
エーテルエネルギーを大きく4つに分類して
それのことを
・仮称 運動エーテルエネルギー
(主に肉体各器官の自律神経・自律組織の維持と管理をしているエネルギー)
・仮称 刷込エーテルエネルギー
(主にこの中を記憶と思考と感情と想念が常時流れている)
・仮称 感覚エーテルエネルギー
(主に感覚や知覚を起こすエネルギー)
・仮称 創造生命エーテルエネルギー
(主に肉体を生かす生命の根源的エネルギー)
の4種類に分類できると云う
またこれらの常時、肉体等を活動させているこの複体といわれるダブルボディーの中を又それぞれのチャクラを経由して
常時、思考や感情や想念やエレメンタルが、人格が、そして記憶などが、外部からやってきてこのダブルボディーの中の仮称「刷込エーテル」の中に流れているのだと
そして、
この仮称「刷込エーテル」の中を、常時流れているマインドである思考や感情や想念、エレメンタル
それが肉体の頭脳や設計図という濾過器(受信器)を通過して(肉体頭脳と設計図のその条件と周波数によってピックアップされ)
その条件付けを経由して意識の表面に届けられて、
その表面に届かれた、想念や思考等のマインドが、
個人や自我意識というものを形成し凝縮して、成長を続けるエレメンタル・想念形態であるサイコノエティック体という輪廻の個人という想念体を作り始めるという
それらが意識(個人のものではない)の表面に到着し届いたものであり、
それが錯覚を引き起こされ、そのマインド自体が「この現在の私」たる偽我意識を発生し、そのマインドの記憶を基盤にして、
思われされ、知覚され、感覚され、思考され、想念され、感情される、そして、これが自分だとマインド自体が錯覚されている
それが私達の知覚作用であり、感覚作用であり、体験であり、その中身がマインドであり、私達の自我・個人という錯覚たる想念である主体意識だと推測される
これこそは自我という成長を続けているが決して意識に至ることのない想念凝縮体、輪廻転生しているエレメンタルのサイコノエティック体そのものであるとおもわれる
これは成長して真我と合一するよう運命づけられている自我である
と思われる
この設計図を背負い、成長を続け、輪廻転生を続けている自我という「設計図を背負ったサイコノエティック体」そのものも、その中身はエレメンタルの集合であり、勿論真の私ではない
とエレブナでは云う
その自我意識(成長を続けるエレメンタルであるサイコノエティック体という想念の凝縮体)はもちろん本当の意識ではなく
その「真の私の意識・非我」の表面を覆っている、マインドが創り出した偽の「私の意識」というマインドの作り出した創作物・想念意識体であり
設計図に従って、外部からやってきたマインドがつくりだしたものであると思われる
その意識にその条件付けと設計図に従い脳を経由してやってきたもの、意識を覆ってしまったもの、マインド、それは
その中身であるものは何であろうか、
それは本性として、
分離そのものであり、見る者と見られる者の分離、主体と客体の分離、私という、個人の観察者と対象である観察者、観察される対象、そして偽の主体
それらが即ち自我であり
記憶を蓄積し、その記憶の継続である輪廻転生するサイコノエティック体というエレメンタルを作り出すのだ
それがマインドの根本そのものである分離性(二元性)であり、
見る私と、対象である見られる私を生み出した、
そして、
それの認識形式こそ感覚という知覚形式や
二元性という思考・経験・体験形式であるとニサルガダッタ・マハラジは云われる
そのマインドの中身が二元性であり「外部と内部」の分割をも生み出したのであるとおもわれる。
そのマインドこそ、実は私達によって覆いを架けられて知覚され認識された外界でもあり、内界でもある。マインドが見ている世界も外界も真実ではなく歪められているのだ。と言われる所以である。
それらは全く外部から「刷込エーテル」の中を伝わって常時流れているもの、即ちマインドが引き起こしている現象であり、設計図に従って頭脳がピックアップ(同調し)して意識に届けられたものにすぎない
これらは意識そのものではない、マインドの創作物だ
外部から届いたマインドが生み出した「私」という偽我の知覚、体験に過ぎない、そしてその中身がマインドの中身である思考や思い、感覚、感情なのだと思われる
またそれは
外部と内部の分離という錯覚を生み出し、本当は「真の私」として、意識として一つなのに、外部に「偽の私」である「他人」を投影し、それを憎んだり、恐れたり、避けたり、好きになったりしているのではないか
しかし、その外部の対象である相手は自分のマインドである偽の内部を投影したものにすぎない
その外部は内部(マインドそのもの)であるものが対象として、また見て、認識する相手として映し出され、知覚されているに過ぎないと覚者達はいう
憎んでいる相手は内部で知覚されているマインドそのものであり、その恐れている対象の恐怖は、実は内部のマインドそのものが投影されているのだ
だから、この知覚されている内部とは、真の私ではなく、
私の回りを覆って常時、
仮称刷込エーテルの中を流れてやってきた
思考や記憶や想念や人格や記憶を、
条件付けられた頭脳という濾過器を通じて、
設計図(永遠のパーソナリティーと真我によって書かれた)という条件付けに従って
意識によってピックアップされ、
届いたものに過ぎない
それらはピックアップされたものであり、私自身ではない
真の私はそれらではない、真の私とはそれを成立させている基底ベース、意識そのもの
その意識たる私は非対象であり、未知なる純粋な主体、全体、普遍である
とそのようにニサルガダッタ・マハラジ達の覚者達は云われる