マインドがマインドを注意している、その状態は「気づき」の反映である
ニサルガダッタ・マハラジはこのように言っている
「そもそも意識を起こさせるのは気づきであるため、あらゆる意識の状態の中には気づきがある
それ故、意識が意識しているという意識そのものが、既に気づきに於ける動きなのだ
自分の意識の流れに興味を抱くこと自体があなたを気づきへと導く
気づき無しには意識はあり得ない、しかし深い眠りのように、意識が無くても気づきは存在し得る」 と
「立ち向かう人の心は鏡なり、己が姿を映してや見ん」も
「関係を鏡として、自己を発見する」も、言っていることは全く同じである
では、ここで言われている、関係を鏡として、又は人の心を鏡として発見される、ところの
「己が姿」、「発見される自分」とは何か
この、関係を鏡として自分に発見されている自己とは何か?
及び、その「発見された自己」を、その「暴露された私」を、あるがままに非難せず注意している「私」とは何か?
「立ち向かう人の心として、他人として映し出されている自己」とは、一体その中身は何か?
その立ち向かっている相手のことを「自分自身の心」として、知覚している私とは、
内部と、そして「外部と映っている内部」を知覚し、認識しているところの知覚者、認識者である主体とは?
即ち、マインドがこの頭脳を経由し、その頭脳経由の記憶が集積した結果として創り出された「私」とは?
その頭脳の、記憶の集積である「私」が、人格であり、個人であり、知覚している私であり、その内容である
であるので、実際は他人とはその“知覚している「私」”が投影しているのではないか、”他人”として、対象として
また、逆に言えば知覚されている「私」(対象としての私、客体としての私、知覚対象としての他人)が主体(知覚者、知覚主体)を創り出したのではないか
だからこそ知覚作用が出来るのではないだろうか、主体として客体として、そして「私」として、「他人」として
知覚や認識とはそのような「思考システム」だからこそ、主体と客体とに分割すること(見る者と見られるものに分割すること)によって機能しているのではないか
同じ一つのマインドが、別々の頭脳を使って「私」と「あなた」に分割しているのだと思われる
同じ一つのマインドが、知覚上の他人として映っている「私である他人」のことを非難したり、判断したり、恐れたり、好きになったり、嫌いになったりしているのではないのだろうか
私の頭脳が認識している「他人」とは
私の頭脳を占有しているマインドが、その頭脳の条件付けに従って思考という知覚作用を発生し
自分のこの頭脳に充満しているマインドの中身を相手に投影して、認識作用が起きているのではないだろうか、「他人」として,「自分」として
その他人として自己に知覚され認識されている「他人であるところの私」と、知覚している私も、共にマインドの姿ではないのだろうか
それこそが、憎しみ、恐怖、悲しみ、暴力、「〜なる」ことである
私が見ている他人とは、即私である
それはマインドという一つの状態を分離して、知覚しているのではないだろうか
マインドがこの頭脳を占有し、覆っているため、このマインドという意識が自他の分離を引き起こしているのである
そのマインドの意識が頭脳を使い、自分のマインドの中身を、他人として知覚し、認識しているのではないか
ニサルガダッタ・マハラジはこの状態を非難もせず同一化もせず「注意」している状態の意識こそが
「気づき」の全体性という意識の働きの一部だという
そうであるので
「外部は内部であり、内部は私ではないもの、即ち外部である」と言われるのではないか
私に知覚され、認識される「この自分」も、そして他人として知覚され、認識される「他人である自分」も共にマインドである
マインドという分離の意識が自分自身を認識し、知覚しているのだ、「自分」として、そして「他人である自分」として
私が見る自分も、他人と思っている「他人の心に映っている己」も共にマインドであって
その状態に注意している「意識」ではない
この注意という意識によって発見されている、そのマインドとは頭脳を覆っている分離性の意識であり、その中身は悲しみと苦しみ、
上辺は快楽という飾りで覆っているが正体は苦痛である、これが「私」と「他人である私」の正体である
であるので
この自他を支配し、覆っているマインド
知覚の主体と客体を覆っているマインド
そして
このマインドの働きである、自他の分離と、その中身である、このマインドの苦しみや悲しみである意識状態を非難せず、同一化せず、受動的に凝視している意識もまた、全体性である「気づき」の働きの一部である
と言われるのだ