ハートの空間
Aさん :お帰りなさ〜い、久しぶりだね、マチュピチュはどうだったですか、何か良い体験があったですか?
B子さん:それがね、マチュピチュからクスコまでの電車の中でのことだけど
喜びが止まらなくなったのよ
周りの人からは、何か気が狂ったかのように思われるかもしれないと思ったけど
ハートから押し寄せてくる、理由のない「ただただの喜び」はどうしようも押さえることも出来ず
自分でも恥ずかしかったけど、電車の中で一人きりで喜びに溢れて笑いこけていたのよ
周りの人は驚いたかもしれないけど
Aさん :それは良かったね、きっと恩寵かもね・・・
B子さん:別に気が狂ったわけではないので、自分の状態は自分でもよく分かっているのだけど
ハートの内部から押し寄せてくる、その歓喜は、内部で爆発して肉体的に見れば大笑いの連続
が、ただただ続いていたの
もう嬉しくて嬉しくて、有り難くて有り難くてどうしようもすることなく押し寄せてきたので
笑いをこらえることが出来なかったのよ
本当に喜びだけだったのよ
Aさん :そう〜か、
電車の周りの人から、気が狂ったかと思われても
その恩寵の歓喜はきっと、無意識的にも周りの人にも伝線していくことだと思うよ・・・
そうか・・・それは素晴らしい事だね
B子さん:そして、その理由の全くない歓喜の中で内側を見てみたのよ
そしたらハートの中にぽっかりと大きな空間が空いているの・・・嬉しくなったの・・
その大きなハートの空間、それはどうやら無限に拡がっているように思われたわ
そしてその大きな空間を感じているとき
同時にその理由のない歓喜が溢れていたのよ
Aさん :それはどのくらい続いたのかな
B子さん:そうね、電車に揺られてバスに乗り換えてクスコのホテルに帰って、街の中で高山病でフラフラしていても
その状態は続き、一日中喜びに包まれていたわ
Aさん :ふ〜ん
B子さん:これは一体どういう事かしらね
Aさん :それはもちろんこれから人類が向かうであろうプロセスを経験したと言うことだろうね
でも、これからはこういう事が起きること自体が普通になっていくことが、今後起こるだろうね
B子さん:私も、その体験の最中に、気がついたことなんだけど
この喜びは頭脳の中ではなくてハートに関係したと言うことなのよ
これは何なのかしら
ラマナ・マハリシがよく言うように頭脳の中心には(現象界を維持しているところの)根源からの借り物の光が
届いているけど
ハートには真の私からの根源から直接、真実の光が届いている、と言うような言い方をしているしね
Aさん :僕もそう思うよ
大事なのはハートだと、
ハートの無限の空間だと
般若心経などでもいわれているようにこの空という事の理解が、今後の人類の決め手になっていると思うね
B子さん:空というと何かしら、無限というような意味かしらね
Aさん :この空を理解し、照見する事が人類にとって求められていることだと思うよ
果たして僕たちは一体何を見ているのだろうか?と思うんだ・・・
事実を見ているのか、それともこれはマトリックスなのかと
この頭脳によって捉えられている抽象とか具象とか、体験とか、記憶とか映像をそれが真実だと信じているけど、
それは違うと思うよ
それはあくまで頭脳という人類共通のマシーンを使ってそこに映し出されていることにすぎないと
同じような頭脳に届いているマインドによって全員が騙されているだけだと思うんだ・・個人が存在していると・・・
その頭脳に映し出されている映像である思考自体が自己と対象という二元性から元々成り立っているので
対象を認識し、同時にその対象を認識している主体を自分自身だと思ってしまうようになっているのが思考なんだと
これは頭脳であるものが、このように条件付けられプログラムされている以上は必然的に自と他(対象)を分離して
捉えてしまうんだよね
この二元的な知覚と認識は条件付けられている頭脳の必然的な結果なんだし、その頭脳にやってきている
根源がコントロールしているのだと思うよ
この点でA子さんのハートの体験というのは、この頭脳を経由して訪れてくる思考やマインドには関与しない
「あるがままのもの」の体験として貴重だし、その体感したハートの空間というのは非常に重要なことなんだよ
僕が推測するに、このハートの空間とは頭脳からの思考にとっては非対象、非思考と捉えられるのだけど
実際はそれをかいま見た君のようにそれは歓喜そのものであり、全てを許す愛の一部でもあったように
思われるんだ、言葉を替えて言えば聖なる沈黙かもしれないしね
B子さん:ふ〜ん、それは随分飛躍しているようにも思うけどもね
Aさん :そんなことはないよ
この条件付けられている頭脳にやってきている思考やマインドや時間と云うものをハッキリと理解し
照見する事が解放への第一歩であるし、自由への道なんだ
思考を思考であると観照している事は、思考からの解放への第一歩なんだよ
この次元をはっきりと鳥瞰出来る事が、この次元に対する上位次元の特徴だよ
そして第二歩が君のような体験である所の、「観察者は観察されるものである」と言うことを観照している事
が真理であるという段階だね
クリシュナムルティーなどによって「虚偽であるものを虚偽と見る事の中に真理がある」と言われるように
虚偽を虚偽と見ているその正見の中に
その虚偽を分離なく正見していることのなかに虚偽ではないもの、すなわち真実が顕現していく余地が生じてくるの
ではないだろうかね
B子さん:なんだか難しくなってきたわよ〜
Aさん :そうかな〜
時間と云う虚偽、
自己と他者の分離という虚偽、自分と他人が別々だと思っていることの虚偽
神と私が別だと信じていることの虚偽、
過去現在未来があるという虚偽
自分が肉体であり、世界・宇宙全体そのものではないと思い込む虚偽
何かに到ろうとしたり、(既に真我であるのにも関わらず)真我に到ろうとする虚偽、
既に愛であり悟っているにも関わらず、悟ろうとしたり、解脱しようとしたり、愛になろうとしたりする虚偽、
個人など何処にもいないのに個人や他人が有ると思って世界平和を祈ったりする虚偽、
外部は内部であるにもかかわらず、外部と内部を別々に分かれていると考えているこの知覚と認識と記憶の虚偽
世界や宇宙は完全完璧なのに完全完璧ではないと思ったり、見えたりしていることの虚偽
またそのように完全完璧ではないように見えたり感じていることを引き起こしている現象界自体の虚偽
自分という自我など何処にもいないのに輪廻転生という映像を自分だと錯覚している主体があると信じていることの虚偽、
限定され、分離している知覚や体験を自分と同一化してしまっているマインドを自分と思っていることの虚偽
既に良いのに良くなろうとしたり、改善しようとしたり、進歩しようとしたりすることの虚偽
行為はしていないのに何かをして、何かになろうとしたりして自分が何かをしたり行為したり出来るのだと思ったり
感覚器官で感じたりしているのだとと考えたり思ったりする事の虚偽
これらの虚偽を虚偽と見ることが君の状態へ近づくことなんだよ、
これらの虚偽を虚偽とはっきりと完全に見ること、見切ること、これこそが自由への道だと僕は信じている
B子さん:それで・・・・
Aさん :僕は要するに、これらの虚偽を虚偽と見て、決してこの虚偽と同一化しないこと
これこそが、否定的接近と教えられているところの真実への道なき道だと確信している
すなわち、マインドをマインドだと見切れたときがマインドからの解放であり、自己からの解放であると、思うんだ
思考の実象を完全に照見したときが、思考は私ではなく、思考が私を生み出していたことを理解するときだと
おもうんだよね
これはすなわち言葉を替えて言えば「自分は思考であり、この感覚であり、自他の分離である」という二元性と
決して同一化しない、と言うことでもあるんだよ
私は肉体ではない、私は思考では無い、私は感情では無い、私とは記憶に過ぎない、私は存在していないという
理解への接近だね
(この段階へは自我の成熟ということを必要としており、最初は自我自身の分離、そして、高度の意味での再統合
そしてここで話題となっているこの再統合からのさらなる超越というプロセス・段階があるとおもわれる)
内部と外部の分離を受け入れたり、時間やマインドを受け入れたり、そのマインドである対象と主体は分離して
いると言うことを決して受け入れないということだよ、ここに於いてはじめて以下の言葉が当て嵌まる段階に
至ったと言うことだろう
クリシュナムルティーのいう「見るものは見られるものである」「自分は世界であり、宇宙である」ということ
「観察者なしに、思考無しにあるがままをあるがままに見る」 という最高度の状態でもあるということかもしれない
この状態であるとき、初めてあのラマナ・マハリシのいう「瞑想してはいけない、ただ在りなさい!在ろうと努力
してはいけない!あなたは既に在る!あなたはその在るについて考えてはいけない、既に在る!!」の言葉が
理解出来る様になることだろうね
もちろん僕はその段階ではないけどね
僕は盲人が象をなでて象のことを説明しているようなものさ・・・
B子さん:ふ〜んAさんが言っていることは分かるけど
自分が行為していると信じ切っている人にとっては、それは危険でもあるわね
貴方の言うことを聞いていると、初心者は間違った方向に行く危険性があるわ
Aさん:そうかもしれないね
それは確かに君の言うとおりだよ
けれども、人類が大きく転換点を迎えた今、普通の人の意識も大きく変わっているのだと、僕は思うよ
クリシュナムルティーが説き続けてきたことが、一般人の常識となることへ、近づきつつあるんだと・・・
B子さん:そろそろ仕事にいく車が来るわ、では又ね