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自分を限定されているもの(心・マインド)だと「考える」ことを止めよ


先日、私のブログに書込があった

それは、この様なことの内容である

即ち、

世界と自分が分離しており、世界が自分の外側にあるものだと錯覚し
(外部は内部であるのにも拘わらず、内部や外部が別々に存在していると想像したり)

過去や未来や現在という時間があるのだと「思い」、将来(未来)という時間の存在を信じ、

真我に至ろうと、探求したりし、且つ、結局は将来は悟るのだと、自分が個人や人格であるかのように思い込み、

そして

自分や他人が、それぞれが個別の実体として、この世界や宇宙に存在しているのだと、

どうしてもそのように信じ込んでしまい

その結果として


出来事や世界や宇宙や神々や他の人々やブラザー達が自分以外の対象や客体として現れているのは

それは、

自分自身で自分が限定されているマインド(自我・記憶)であると考えてしまい

そして、この錯覚をしているからなのです、と


それはなんと言っても

自分が、自分として、マインド・心や、記憶・自我を受け入れてしまい、

そして、なおかつ自分のことを各種の身体だと錯覚しているからであり

そのような「考え」を受け入れているからです。



なるほどと首肯されたのは

確かに、この「あるがまま」を「あるがまま」にみず、歪曲して見ているのは、
(即ち、あるがままをあるがままに見ることが出来ないのは、即ち、自他を分離してみているのは)

このマインドを自分であると思い「考え」ているからだ、ということに深く思いを馳せているからです。


これを書いている間にもまた、投書を戴いた

それは、私が常々上江洲義秀先生からもご指摘を受けていること

即ち、真理を書物などを経由しての「知ること」に関しての過ちについてである

真理を知識などを経由して知ったり、考えることや思う事で近づくことができるという、誤った考えに対する警鐘である

(以下本人の承諾無しに此処に掲載させていただきます)

知ること

真理とは決して「知る」ことはできません。

何故なら「知る」という行為自体が「自分」と「対象」と言う限定の上に成り立っているからです。

「思考」と言う心の作用の場にある限り、真理が啓示されることはありません。

真理の啓示とは「知る」と言うより、むしろ味わう事に近い。