マトリックスについて
あの映画マトリックスも非常に良くできた映画ではあると思われるが
映画の限界が有るように思われる。
それは
あの映画に出てきているそれぞれの人物それ自体が、マトリックスであると言うことが落ちている。
この仮想現実世界が物質界・幽界・霊界を含めてマトリックスであるけど
それを認識し、知覚している、この主体自体も又マトリックスであることが、あの映画では扱われていない。
しかしこのマトリックスという仮想現実世界を投影している、その方法とは各人の頭脳を媒体として投影していること
即ち
この頭脳を経由して投影されている、ということ。
内界と外界という分離しているこの仮想世界・宇宙が私たちによっては、逆に「現実の世界」と呼ばれており
頭脳がこの仮想錯覚世界を生み出していることを指摘している点では
素晴らしいと思われる。
また、あの映画の中で登場人物達が、この仮想現実である虚構の世界、即ち頭脳が生み出した投影の世界に
留まるのか、それとも、あるがままのこのカラクリを見ることを選択するのかを、
すなわち、彼らの覚醒しているリーダーから、どちらを選ぶかを
薬として与えられ、いずれかの薬を飲むことで選択できるというのも
頭脳の状態が覚醒と大きく関わっていると言うことを示唆している、が
それは現象界の次元ではなく、更にもっと奥深い根源の次元が、この脳の変革に関与しており
今、ちまたに流行し、闊歩している「○○○○○」では成就されない。
この物質界・幽界・霊界という仮想現実世界を生み出しているのが、この頭脳(肉体のみではない、幽体の頭脳も、
霊体の頭脳もある、と指摘されている)の条件付けであることを指摘した点は、鋭い認識ではあると思う。
この点同じようにラマナ・マハリシは次のように言っている
「貴方の今の五感の感覚が、「世界は実在」で、且つ「私は存在している」という印象(錯覚)を与えるように調整しているのである。」
これはまさしく映画マトリックスが言わんとしていたこと以上のことでもある
しかし更に続けてラマナは言う
「想像でしかない「私」が投影し、創造した世界は創造されていない」と
これは、実際の「現象界のカラクリ」を暴露する大変重要な言葉でもあるように思われる。
此処で述べられている「想像でしかない私」が「創造した世界」とは
この目の奥にあって頭脳の中核(この頭脳が調整させられた結果)に、借り物の光からやってきた思考・感情・出来事が
この頭脳内に、「調整させられた」映像としての仮想現実世界であるものを投影し
時間と空間を生みだし、それが世界宇宙として、
更に又、それを観察している者として、
また、私と他人という「分離」として認識させられている。
この、私たちが知覚している現実とは、実は、仮想現実世界の認識システムの結果であって、頭脳の中にしか存在しないのである。
そして、更にそれらのマインドと自己同一化した第1想念が
頭脳を経由して、頭脳内部に、その反応を生み出し、投影しているのが
この2重に投影している現象世界である。
しかし
外部からやってきている借り物の光に自己同一化してもしなくても
それらの借り物の光が生み出した心も、身体も、出来事も起こるようにしか起こらない。
にもかかわらず、この借り物の光に反応して「想像でしかない私」であり、真我から生み出された第1想念といわれるものが
更にこれに加えて、プログラムに従って反応し、自分が行為していると錯覚して「結果」であることを投影してしまうのだ。
いずれにしても、なるようになっていく
そして、このように現象界は映像のように映写されていく。
起こるように起きて、そしてそれは、決められたようにプログラムに従って反応して…起きていく
現象界という時間の中での幻想として続いていく。
しかしそれは
真の私ではないところの、本来存在しない「虚偽の私」が生み出していると思っているところの
全く映像の世界ではないか
逆に言えば、この現実と思っている、三界である物質界や幽界や霊界は、実は全くの仮想現実世界で、それを投影し、生み出しているのは
真我からの借り物の光であり、同時に頭脳を経由して、頭脳内に投影している「偽の私」「想像でしかない私」であると言うことである。
そしてこれらのこのことを知覚していることも
そして、この知覚自体も、頭脳の調整されたシステムにより決定されている結果である。
真我は現象界を生み出した
頭脳のシステムを生みだし、心を生み出し、その心が身体を生みだし
その頭脳に
借り物の光を送って、二元性という錯覚を起こさせ、内部と外部に出来事が起こり
更に
第1想念を使い、自我(エゴ)を存在させ、輪廻している行為者という錯覚を生み出した
それらがともに
現象界という錯覚を維持し、支え、運営している。
だから続けてラマナは言う
「世界・宇宙は私という想念が現れると同時に現れ、消え去ると同時に消え去る」
また
「世界はその想像でしかない知覚が「知覚されたとき」のみに、あたかも在るように錯覚される」
これは見る者という「想像でしかない私」なしには、見られるものという「対象・客体」は存在できない、ということだ。
即ち
見る主体も見られる客体も、虚偽の私である第1想念が生み出したと言うことである
その第1想念に借り物の光がやってきて、第1想念はそれらの思考や欲望や行為を自分と錯覚したのだ
だからラマナは
それらのやってくる借り物の光からのマインドである思考や欲望や感情を第2想念と言ったのだ
ちなみに第3想念とはその第2想念の媒体である言語や言葉、記憶である。
だから映画マトリックスでは触れられなかった点は
このマトリックスの仮想現実世界を生み出しているのは
実は
この想像でしかない私という第1想念であり
真我から生み出された第一番目の想念であり
それは、それを正しく見られるとき、「存在していない!」という
これが
この重要なポイントである
ラマナの至高の言葉は続く
「真我のそこには宇宙・世界の崩壊も創造もなく、束縛された人も、霊的修練を積む人もいない
解脱を求める人も、解脱をしたひともいない、これが真理である」と
「真我探求は真我ではないもの全てが、拭いさられて始めて終焉する」
「宇宙の創造はされていない」
「人が世界を見るとき、人は真我を見ていない、人が真我を見ているとき世界は見られていない
だから真我を見なさい、そして創造はなかったと知りなさい」
そしてラマナは
この身心が完全に脱落した後のことも言っている
即ち
身心が脱落した後の「脱落身心」である。
禅で言うところの「十牛図」の最終地点である。
脱落し、真我として戻ってきた状態でもある。
「最初に非実在として捨て去られたものも、「ひとつ」として在るところの、一部分であったことが理解される
実在の中に吸収されれば世界(マーヤ・幻想)もまた、実在である」と。
実相界と現象界というものも、実相の中に現象が吸収されるとき、全ては実相である
実在と非実在というものも、実在の中に非実在が吸収されるとき、全てが実在である
と
そういうことであるのであろう。
さらにラマナは「偽の私」と「世界・宇宙」を生み出している頭脳と、その虚構の世界(現象界)を生み出した借り物の光との
相互関係について次のように叙述している。
身体は心の中に存在し
心は脳の中にある。
脳は別の源から借りた光によって機能している。
もし、その光が借り物ならば、それが生じた源に直接に行きなさい。
借り物に依存してはならない。
その源こそハート・真我である。
貴方は身体ではない、貴方は行為者ではない、行為は起きていることである。
欲望も、思考も、感情も、出来事も起こるように起きている事であって
起きていることは私(真の私)ではない。と言われている。
内と外に起きていることは、投影されていることだ。
さらに、それに加えて、やってきたことに反応した「偽の私」が投影している。
偽の私が内と外に分離しているように錯覚しているのだ、自他が分離しているように想像しているのだ。
この「偽の私」も「借り物の光」と同じようにマインド・想念であり二元・分離性である。
この「偽の私」が第1想念であり、錯覚をしている主体である
この「偽の私」がやってきている借り物の光と自己同一化しているのだ。
そういうわけで
見る主体と見られる客体との分離は、
即ち我と汝の分離とは想像である、錯覚である。
真実は「我と汝」「我とそれ」ではなく、「我・汝」「我・それ」であって分離していない、と教えられている。
で、この錯覚の第1想念が、脳内にやってきている借り物の光によって映し出されている映像を
間違って自分と錯覚しているのだ
この借り物の光は真我によって使われている
そして
この幻想である、第1想念も、真我から生まれた
真我は行為には関わらない。カルマには関わらない。輪廻転生には関わらない。
これこそが宇宙の法則であると、上江洲義秀先生も言われる。
真我は世界を自分と分離せず
内部や外部という分離をしていない、
真我はこの分離しているとおもわれている内部や外部には関わらない、と。
内部と外部の分離・区別は借り物の光の映像である。
そして、それは又第1想念の性質・状態でもある。
だから
真我実現した人は世界を彼自身と異なったものとして見ていないのである
と言うことであるのだろうか。