私ではないもの

ラマナ・マハリシは意識(ニサルガダッタ・マハラジの言う気づき・クリシュナムルティーのいう全体性のこと)の特性が、それは「わ・た・し」という意識、即ち「I AM THAT=私」であると教えている

所謂、真の私であり多くの覚者のいう真我と言われる意識次元領域である

この久保栄治は勿論その「わ・た・し」という意識「I AM THAT=私」という意識を体験したことは全くないが

(私の回りでは数人がその意識領域を経験している)

その意識を覆い隠しているもの、マインドの記憶であるもの

その真の私ではないもの、

即ち錯覚というもの(記憶の作動・働きを錯覚と称する)のいくらかは推測できる

その私でないのに,私という偽の主体意識を持っているもの、その偽の主体意識とは全く以て、それは意識などと本来では呼ばれるものではなく、単なる記憶の思考作用に過ぎない

その記憶の作用が内面にて知覚されると、それが間違って、意識とか私とか呼ばれているものである

それは全くの錯覚自体である、それは「私」ではない、「私」とは意識である、分割し分離できない意識なのだ。

その錯覚は記憶の作用であるので、「私」ではないのだ

だから内面に於いて、私達は「真の私」と、‘私を詐称するもの’を峻別しなくてはならない

即ち「意識」と「錯覚」を区別し、私でないものを私ではないとハッキリ認識しなくてはいけない



では私ではないものとは何か

■・私に認識できるもの、私に知覚できるもの、即ち、私にやってくるもの、私の意識の座に起こること、既知なるもの、即ちこの私
 (「私」とは未知なるもの、言葉ではないもの、知識ではないもの、思考ではないものである、母の胎内から生まれていないもの、そして死ぬことのないものである)


■・波動を感じるもの、波動を出している私。

波動を感じている状態とは、波動を見ている自分と、その波動を出している対象との分離の上に成り立っている、この分離を知覚しているものは、少しは領域が精妙ではあっても、真の私ではない

■・輪廻転生を続けている私、

この苦悩であり、悲しみという分離の根本であり、この錯覚の中心であるもの、これが記憶の塊であり、過去からの多くの顔を持っているが、錯覚に過ぎないもの、記憶。それらは「私」ではない。

この私とは、マインドが頭脳を通じて生み出した記憶の凝縮物であるに過ぎない、そしてその記憶が生み出しているものが特定の顔を持つ人格であり、その記憶の中核が輪廻転生を続けている記憶体(コーザル体)である

■・この現在(今此処の「今」ではない)、生きているところの私、

この分離という悲しみの時間の枠の中に生き、生々流転し、生まれ、死滅する自分。この知覚し、知覚され、認識し、認識され、意識し、意識されている私は、記憶が生み出した個人であり、如何に意識を持っているように見えても、その意識とは単に思考という時間のマインドに過ぎず、それは「私」ではない。それは記憶が生み出している錯覚である

■・“自分自身”自分は、と通常何気なく自分を意識したときに、何かの特定の身体と自己同一化してしまっている私の意識。
(又は、他者を意識したときに、必ず身体を伴った顔を意識するのと同じように)
この私の自分自身の意識とは「私」ではない、それは正確には意識ではなく、思考である。

根源から生み出された、マインドによってプログラム通りに思考が(頭脳を経由して)、それ自身を身体と同一視して、この個人・人格という単なる思考の固まり(記憶)を、久保栄治という私だと錯覚し、再なる自我(エゴ)を創り出しているのだ。
しかし輪廻転生しているものはこの記憶の中心だけである。
転生に際しては、久保栄治という人格はワサナとなり、その成果はサムスカーラ・傾向としてその記憶の中心(コーザル塊)に収納されて、この悲しみの輪廻は継続していくのだ。

思考はマインドのものであって、それは意識ではなく「私」ではない。

この「私」ではない思考は、分離性ゆえに対象を創り出し、他者を外部に見てしまう、世界を自分の外部と見てしまう。

自分が他者であるのに、自分が他者の身体であるのに、又観察し、観察されるものであるのに、自分の前にいる人は、自分を映しだしているのに、である。

即ち、自分が世界であるのに、それを外部に見て、自分ではないと錯覚する。他人は自分ではないと錯覚する。

しかも、その他者を、この自分とは別個の顔や身体を持った人格(肉体・幽体・霊体などの別を問わず、限定され特定された時空間の身体と言う意味)と錯覚してしまうのだ。その錯覚は自他共の錯覚であり、マインド自体の特性。根本の錯覚なのである。

「真の私」の正覚から見れば、錯覚は錯覚であり、この身体と自己同一化した人格や個人とは存在していないのだ、と多くの覚者によって教えられている。

だから真の私であるとき、自分も消滅し、他者も消滅し、世界も消滅すると言われているではないか。

身心脱落であり、その後に真の世界である脱落身心が在ると言われている。


■・内部に発見されるもの全てが、「私」ではないものである

マインドである思考、そしてその思考が生み出した記憶であり、その記憶が知覚し認識するもの、体験するものの全ての一から百までのもの。

この中には如何に高尚に見えたり、神や天使などの姿を纏い、常ならざるものであっても、そのマインドの記憶が知覚し体験し、経験するものは、その記憶の投影であり、記憶の範疇・次元・領域を超えることは出来ない

   それは自分が思うことの全て
   それは自分の行為の全て 
   それは自分の欲することの全て
   それは自分の願うことの全て
   それは自分の切なる希望の全て
   それは自分の目的、成果、達成、成就の全て
   それは自分の愛すること、恋することの全て
   それは自分の欲望することの全て 
   それは自分に起こる出来事の全て
   それは自分の終焉を願うこと、自我の終焉という解脱を願うことの全て、そしてより巧妙に
         自己の存続を願うものの全て
   それは自分の感覚の、身体感覚の全て、知覚の全て
   それは自分の知識、論理的解明の全て、蓄積してきたものの全て
   それは自分の霊的能力の、超能力の全て
   それは自分の体験の全て、今生だけではなく過去世からのも含めて全て
   それは自分の成功・失敗、健康・病気、幸福・不幸、金持ち・貧乏、才能・不倶、等のことの全て、
   それは自分の動機の全て
   それは自分の生きていること、この生活し、仕事をし、日常生活のことの全て
   それは自分の認識の全て、経験の全て
   それは自分の波動を見たり、波動を変えたりする力の全て
   それは自分の高次のハイヤーセルフ、輪廻転生している魂そのものの、その全て
   それは自分の人生そのもの、生そのものの全て
   それは自分が生まれたという錯覚、この肉体との同一視の全て
   そして自分が生まれてもいないのに死ぬだろうという錯覚、その、この肉体との同一視の全て
   それは自分が各種の身体であり、又は各種の身体を持っているというこの錯覚の全て 

それらは、全てが「私」ではないものである。
それらは、全て、「私」ではない、外部のプログラムからやってきては、去るものである。
「私」は、これらのマインドではない、時間ではない、と言われている。


   
■・この現状の、現在の私の知覚とは、真の知覚なのではない。

真の知覚であるなら、どうしてこの自他の分離感を感じたり、「自分や他人という、自分とは別の特定の人格や個人」などという、分離した個別存在と言う錯覚が感じられ、且つ、世界が自分の外部に有るように見えるのだろうか。
真の知覚なら世界は内側に、そしてマインドが生み出した私や、個人や世界という映像は透けて見えると言われているではないか。
真の意識・知覚にとっては、全てが分離できない全体そのものであると教えられているではないか。

この知覚は汚染され、錯覚されているので、自他の分離を錯覚し、私という自我(エゴ)が生み出され、それゆえに、そのありもしない映像の私が良くなろうとしたり、神に至ろうとしたりするのだ。

この汚染された知覚それ自体も、その知覚から記憶となって生み出される自我(エゴ)も、根源のプログラムによって引き起こされているものであり、この意識の座の表面の鏡(スクリーン)に繰り広げられている映画の映像であり、「私」ではない、と言われている。

良くなることも、神に至ろうとすることも、記憶の作用の一つである「満足しよう」とするそれの持つ願望の働きである。

それを自己欺瞞し、自分は‘自分を良くしよう、神に至ろうとしている’、という崇高の精神の持ち主なのだと慰撫しているのだ。
それこそグルジェフの言う緩衝器(真の自己観察という自己暴露を通じて「見ること」によって引き起こされる苦痛を避けるために、生体が自動的に自己欺瞞を起こさせる装置)の働きである。 

この現状の私は邪悪である。何故なら自他を分離して見ているからである。

この眼は意識の真の眼ではなく、マインドの記憶の眼に過ぎない、この眼、この眼の私は邪悪な錯覚そのものである。
それは錯覚であり、目が覚めたら存在していないのだ。

この現状の私の思うことは、全て邪悪である。
ないものをあるとおもっているからだ。
マトリックス(幻想・映像・外部のプログラム)を現実と錯覚している。
真の現実は非二元性、非分離性、全体なるものだと教えられている。

これらの映像は記憶の作用という錯覚であり、この錯覚は必ず分離しており、自分を身体であると思い、他者を自分ではないと信じているのである。

そして、この錯覚が邪悪なのであり、この錯覚こそが闘争と、悲惨と、競争と、暴力と、恐怖の原因なのである。
だから、この錯覚が生み出したものである私自身が、邪悪な存在なのである。

世界を外部に見て、自分と世界とが別々にあると思うこと、
見るものは、見られるものではないと思うことのマインドの分離性・二元性・非全体であるものは、害悪をまき散らしているのだ、錯覚に陥っているがゆえにである。

見るものと見られるものとは別だとする分離区別
観察者は観察されるものとは別だとする分離区別
外面とは内面の投影でなく、別だとする分離区別
外部は内部とは別の存在だとする分離区別
私は世界とは別個に存在しているという分離区別

そして、それらの錯覚をしている記憶(害悪をまき散らしている思考の記憶)とは
自他の分離に陥り、世界を外部に見て、他人のことを、自分とは別の顔を持つ存在と錯覚しているものだ。

そのマインドの記憶とは
輪廻転生している記憶とは
時間のトリックに陥り、今を過去と現在と未来に分割しようとしている記憶とは、

何か、誰か

それらが
将来、必ず良くなるのだ、将来、自我の終焉を迎えるのだと錯覚しているのだ。

それらは全てが、「私」ではない。

「私」ではないのだ

勿論、久保栄治とは記憶であるので「私」ではない

この私は「私」ではない

この記憶の私は存在しないのだ

私はいない。


と上記の様に覚者達によって教えられているのである










     

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