私ではないものに気づこう

私ではないものをランダムに列挙してみよう


☆今この書いている私、この人格はわたしではない

まず初めにハッキリとさせておきたい
この私という人格も、この意識も、
そしてその人格やこの意識のこの中身も、
その総体である主体そのものも真のわたしではない、それは偽の主体だ

私に知覚できる私と思えるもののそれら全て、即ち、私が知覚している私とは本当は真の私自身ではない。
この肉体も、想念も、カルマも、仕事も、そして、私の身の周りに起こることは、外部からやってきているのであって、私が起こしていると思うことは錯覚だ、
それは本当に外部からやってきているのではないだろうか、
設計図とおりに。


☆自己意識・自己関心、分離された私という感覚、そしてそれが引き起こす「他人」「普通の人は」などという認識と、高慢さはわたしではない

好き嫌い、自分は特別な人間だ、自分は選ばれた人間だ、などという高慢さを引き起こす根源は自分という分離意識からだが、これは最初からこの自我に組み込まれているので、私にはどうしようもない、それは外部からであり真の私からではない
その自意識と高慢さ、選民意識は初めから組み込まれたもので分離意識から必然に生まれ出てきているので
高慢さと、自分は特別だ、と言う意識はこの偽我からの必然だと思われる


☆輪廻転生している実体(魂・設計図)はわたしではない

生まれ、そして成就する?!ものは私ではない、
錯覚の中で生まれ、そして死滅するもの
私に外部から来ているもの、その実体、それを誤って主体であると勘違いしている
その無知であるもの、そして悟りを開く?!ものは私ではない
徐々に良くなるもの、進化していくもの、何万回と転生を繰り返し、そして真我に戻るとされているものは、真の私ではない
その実体は私ではない、それは設計図そのものだ


☆この知覚、そして知覚している主体、そしてその対象の中身はすべて、わたしではない

この現在の私の知覚は非常に条件付けられている、この肉体の頭脳を経由して、私達に非常に限定され、間違った知覚情報を伝えられている、
また受け取るこの器である主体そのものも、設計図という転生を繰り返している偽の主体であり、それが観照者自体を、本当の主体であるものを、厚く被っている

そしてその結果
私達は貴方を、自分とは別の存在と錯覚して、そしてその結果、自分という幻想を生み出した
その幻覚を生み出した大元はこの知覚という、限定され条件付けられた視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚でありそれが引き起こす分離感であるとおもう
そしてその与えられた間違った知覚に付け加えて
受け取る本体であるものは更に条件付けられている主体であり、それそのものは、設計図に従って、このように錯覚され受け取ったものを、
更に分離されたものとして認識し、
その結果体験という現象を生じさせている


☆私という主体の感覚、魂としての個別性の感覚はわたしではない

この偽の私である主体という錯覚は二重、三重にわたって厳密に構成されている。
そしてその私という錯覚が輪廻を支え、現象界の運営を支え、この地球と宇宙のドラマを支えている、のではないだろうか。

私にやってくる私という偽の主体性の感覚は常に分離されているが、これは私ではない。

輪廻している個別性の、個としての魂なるものは、勿論全体ではない。

一命一体ではない。

愛そのものではない。

輪廻を続ける個としての間違った認識と自覚は常に闘争と恐怖を生じさせてしまう。

私は個ではない、全体である、全てであると繰り返し、繰り返し言われている

従ってこの私の輪廻転生している魂というものは真の私ではない。


☆進化していくもの・良くなっていくもの・悟りを開くもの・神になっていくもの、それはわたしではない幻影である

時間が生み出したわたしは真のわたしではない、
真のわたしとは過去・現在・未来の中にはいない、とそのように言われている。
時間に属さない「今」であると言われている。
真我は永遠であり、既に完成している。
とそのように言われている、既に完全であると言われている。

時間の中にいるこの偽の私はマインドによって作られたのではないか、
二元性によって作られ維持されているのではないか

この偽の私によって知覚し、知覚されている私とは、この根本の無明によって創作され、真のわたしに貼り付けられてる偽の私に過ぎない。

それはわたしではない。

真我は真我であり、既に全体であり、既に普遍であり、既に遍在しており、そして既に愛そのものであり、既に神そのものである、とそのように言われている。

時間の中にあるもの、それが良くなること、良くなっていくこと、悟りを開くこと、は嘘であり、欺瞞である。

このマインドの偽我は良くならない、悟らない。
良きこと、悟りは既に在るのであって、ただマインドでは発見できないのだ。次元が違うからだ。

時間の中にあるものはマインドであり、それは自他の分離性であり、傲慢であり、悲しみであり、恐怖であり、不安であり、愛ではないものである。

そして、これらを誤って私自身と錯覚することこそが
私達の開花を、そして聖なる自我の死滅を、遅らせるものであると思われる。

わたしたちは実際には既に悟っており、既に神そのものであり、既に完成されており、既に完璧であり、完全であり、絶対である。とそのように言われている。

進化するもの、良くなるもの、悟りを開くもの、等の時間の中のものはマインドの創作物であり、それは嘘である
それは壮大なるカラクリである、進化の概念が時間のカラクリなのだ、と思われる。


☆記憶はわたしではない

結局は記憶とは設計図の筋書きとおりにドラマを続けるために使っている台詞ではないのか、

私でない作られた偽の主体が人格として記憶し、そして、それらが記憶したところの中身である。

この条件付けられた意識、人格の人生であるところの、この出会い、出来事、感情、思い出、そして苦しみ、痛み、悩み、恐れ、不安それらの記憶は、全てこの条件付けられた頭脳を通じて、思考や感情が流れ入り

そして
条件付けられた主体が条件付けられたように解釈したものである。


そしてその受信された情報を受け取って、発信している主体も、
即ち
その主体の経験や体験も、全て設計図通りに、書き込まれたとおりに、
条件付けられた通りに思考や感情や想念は自分から出て行って、想念形態エレメンタルを作り出す

そして
それが記憶されている。

そしてその記憶が私という人格を作り、人生を作りその結果、ワサナとカルマを作り、

輪廻を廻している

それはシステムであり、真のわたしではない

真の私はその人格達の記憶には関与していない
真のわたしはそれらの人格達の反応としての記憶ではない、
真の観照者の記憶は全く別である。
とそのように思える。


☆私達自身、過去のワサナ、そして今の人格は私ではない

条件付けられた頭脳が受け取る、条件付けられた思考や想念、
そしてそれを受け取る、「条件付けられた主体」である魂ともいうべきところのものが、私という錯覚そのものの本体ではないか。

それが(この輪廻を続けているこの魂というものが)作り出した感情や思考が記憶となり、
そしてその記憶が凝集して生み出されたのがワサナ、人格である。

そしてそしてこの作り出された意識、それが今の現在のこの人格の本体である。

その人格達が蓄積して、この物語を、現象界というドラマを演じ、カルマが支えて推進している。

このドラマはこの物質界だけではなく、サイキック界でもメンタル界でもそして個別的な人格があると錯覚している神々の世界でも同様であり、続いている。

それはこの地球だけではなく、他の太陽系でも、他の銀河系でも、他の宇宙でも、そして他の分離していると錯覚している所は同じようにこの、二元性と分離性というドラマが行われている。

これは夢である、と、そのように覚者は言われる。
その夢は真のわたしは関与していない、何故ならその夢は二元性から成り立っているからである。

それにひきかえ、真のわたしは夢ではない、錯覚ではない、「存在」である、といわれる

☆肉体・エーテル複体・サイキック体・メンタル体・コーザル体・はその現象界を支えている「個別性を生み出す偽の主体(魂・設計図)」の乗り物ではあってはならない。それは聖なる真のわたしの乗り物であるべきである

今現在は、肉体を含めての諸体、多くの諸々のボディーはこの自我、この偽我という設計図(転生している本体)の乗り物として使われてしまっているが、そのボディーそのものは偽我でも、真我でもない、神聖なものである。

それは本来は真我に使われるべき乗り物としてそれらの肉体等は在るはずであるのに、間違って私であると思われてしまっているこの偽我である人格の乗り物となってしまっている。
これが現状である。


☆この現在の意識も、記憶もわたしではない

この今現在の顕在意識も潜在意識も真の私の意識ではない、
何故なら、まず初めにこの私の肉体の頭脳が条件付けられているので、知覚することが出来ないし、
高次の意識を受信することもできない。

また私自身の主体という魂も、設計図そのものであり、
この現在の意識の主体そのものである偽の私が、真の私を被ってしまっていて知覚、認識、体験の全てを占領しているからである。

この現在の私が
知覚すること、
行うこと、
記憶すること、
認識すること、
体験すること、
生活すること、
考えること、
感じること、
思うこと、
仕事すること、
生きていることの
全ては私ではない、私にやってきていること、であり
私に起こっていることである

それは「見るものは見られるものである」の状態でないかぎり、全て二元性の錯覚の中での出来事である

それにひきかえ「気づき」とは、なにか

即ち、私が幻覚であったことに気がつくことなどや、真我の覚醒、この魂(設計図)の死滅など、は私に起こることである、やってくることだと思われる

しかし
それは頭脳細胞の手術や変革だけがもたらすものではなく、もっと根源的なこの偽の私の主体である魂そのもの、この個別性、分離性、二元性である主体性の消滅そのものを伴っているものである

そうではないだろうか

それは、或る外部からのエネルギーでもって引き起こす権利は与えられていない、
とそのようにおもわれる。
あるエネルギー現象によって私が知覚する似通った経験や体験は引き起こすことはできるであろうけど

真我の覚醒、私である神の目覚には、それらでは決して導かない

それが出来るのは真の私自身だけである
それは内なる私自身「真我」が決める


何故ならその輪廻の主体は真の私が作ったのだと思われるからである

即ち

それは私に起こることであるが
それは外部から起きるのではない

此処が最大のキーポイントである

内部から
それは真の私の中から、内側の真我から、それはやってくるのだ

決して、そして絶対、外部からではない、自分以外ではない、真我以外ではない、そとなる神からではない


私の中央から
私の真我から
私そのものからであり、そこからしかその恩寵はやってこない

何故なら「絶対」である、その「存在」は、「その御方」はわたしであり
わたしこそ神であり
そのかたは「I Am」であるからである

私達はそのように教えられている
だから
わたしはそのように信じている










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