結果
上江洲義秀先生は言われる「私達は結果である」と
結果とは一体どういう意味なのであろうか、私は次のように思う,
結果である私とは
結果の私とは自分の事しか考えていない、考えられない、考えることしかできない。自分の事しか見ない、見えていない、見れない、
自分の事しか関心がない、自己関心しか抱くことが出来ない「心」である、これが結果という「私という観念」の実体、私の姿である
自分の事しか意識することが出来ないし、自分の感覚しか知覚できない、自己の五感しか知覚できないしそれ以外は知覚しない
それは肉体知覚に限定された「意識もどき」即ち愛ではないもの、それはプログラムに従って起きているもの・観念・分離した主体
であり意識として、思考として、他と分離した主体としてやってきているものである、それが結果である私だ
「意識もどき」。これが結果の私と言うものではないか、この私観念、これは愛ではないものである、この意識は質料の意識だ
これが私であり、自我・私・わたしと言う観念であり私達はこの観念そのものであるということだ
この私・観念自体が分離した二元のものであるので、自らを分離して、自己自身を対象化して自分や他人を観察していると言う
けれど実際はこの私・観念が自らを外部に対象として自分又は他人と認識し知覚しているに過ぎない
肉体とその「私という意識体」はしかるべきカルマと運命を持ったプログラムによって働いているのだろう
結果の私とはプログラム通りに(条件付け通りの)運命と出来事とを思考と感情を通じて経験をして、それは生じ滅するのではないか
其れは肉体や幽体や霊体と一緒にある決まったプログラム通りに出来事とダルマとカルマを背負って運命を成就していくけれど
その私とは結果であり、それは設計され条件付けられたロボットであり、投影された映像である、
それが私と言う観念だ、それが私と言う結果の私だ、この観念の集合意識が地球を覆っている。
この肉体を使用している(頭脳と結ばれている)意識体(朝に目が醒めた)・私とは「私という結果である観念」であり、
プログラムであるにすぎない、思考はプログラムによって使用されている道具である
なのにその思考である思考は「自分が思考している」と思うのである、思考は根源が使っている投影のための道具である
自我も肉体も思考も出来事もその根源・プログラムの使用している道具であり、そのプログラムが引き起こしていることに
過ぎないのではないか、
カルマとダルマと運命と出来事、そして肉体は遺伝子DNAを通じてプログラムによって頭脳と接触し、
脳内に投影されているのだ
その投影という映像(現象世界)が継続するために「輪廻する自我=観念」というものが根源によって作られたのではないか
結果の中にはプログラムされたロボットが生きているだけで、私は生まれていない、そこには私はいないのだ
真の私はそれを観照し見守っている私だと
思考というものが「思考自らが分離して観る者と観られるものに分離し」観察者が観察していると思い込んでいるに過ぎない様を
思考なく、判断なく、油断なく、言葉なく観照しているのである
実際は観察者も観察されるものもマインドの両側面に過ぎず、見る私も見られる私もマインドが起こしているに過ぎない
主体は客体と分離していないのに、「分離して観察しているに過ぎないこと」を観照しているのである
大空に浮かんだ雲というもの(観察されているものにもかかわらず自分というものが観察していると思っているものである想念)を
その大空が観照しているのである、言葉なく、思考なく、判断なく、私なく
出来事がただ起きているのではないか、起こるべきように起きている、映像が投影されている、結果である私と言う映像が
地球と宇宙にある数え切れない何億兆という意識体を通して上映され続けている
この私も、あなたも、運命も、カルマも、ダルマも、生死も起きている映像である、そこには結果しかない、結果という私しかいない
しかし結果とは聖なる事でもあるのだ、現象界は根源によってこの出来事という聖なることが起こされている、時間と云う思考を
使って・・・
観察されるものも、そしてその観察されるもの自らが生みだした観察するものも
それは私ではなく結果であったのだ、あなたも私も共に映像であったのだ。この意識も思考も感情も体験も出来事も映像で
あったのだ
この肉体の私が生まれそして成長して老いて死ぬという映像も、その映像を見ている私も共に起きているのだ
その映像もその映像を見ている私も共に起きているのだ
そしてその「結果である映像」が起きている場所が頭脳なのだ、
しかしその映像はスクリーンが在るから投影されているのである
(PCで映像を見る事が出来るのはインターネットがあるから見る事が出来るように)
このスクリーンこそが今此処である「空間」ではないだろうか
しかしこのスクリーンとは思考ではないので意識されないし、対象ではないので知覚の対象ではない、ただ在るのだと教
えられている
ここで結果である私ロボット映像の特徴を見てみよう、このロボットという条件付けられている私・意識体が持っている
思考というものを見てみよう、この意識体の質料の特徴を見てみよう(肉体自体はこの私・意識体が一時的に使用している
極度に素晴らしい叡智の塊である)
■この結果である私はあるがままを変えようとする、必ず良くなろうとする、何故なら本質が時間だから必ず将来を志向する
そして時間である過去・結果は未来を投影して、あるがままを避けて良くなろうとしている、あるべきものという観念を生みだし
そのあるがままではなくてあるべきものという観念を未来という虚構に投影して、なろうとし、努力し働き出す
即ち、あるがままをあるがままに受け入れず受容することは決してしていない(しかし受容していると思い込む)
この条件付けられている意識体はあるがままであるものをあるがままに見ることはないし見る事も出来ないし、見ようともしない
あるがままではなくて自分の欲するように、願っているように、あるべきようになるように、イメージしたりして質料を作りだして
良くなろうとしている、そして実際良くなっていると錯覚する、イメージが具現化するのではあるがまた元に戻ってしまうのである
■結果である私とは、あるがままを否定しようとし、そして、あるがままを超克しようとしている、神に近づこうとする、解脱しようとする
しかしそれにも関わらず、この私とはあるがままの私であり、結果であるに過ぎず、あるがままを超えることはないのである
それは結果という既に起きてしまっている過去である時間というものであるからに過ぎない、この私は既に起こってしまった結果な
のである
何れにせよあるがままを怖れ、否定し、拒否し、判断し、逃避しようとしているのがあるがままの私であり、この逃避している私が
あるがままであり結果である私だ
■この結果である私、それは決してこのあるがままを受容としようとはせず、見ようとせず、受け入れず、少しでも良くなろう、
真我実現しようとして猿のように働き動き回っているのである
その猿が私のあるがままである、私とはあるがままから逃避している姿であり、この結果の私とはあるがままを受容していない
意識体なのである、今此処あるがままから逃げているのが私・結果なのだ、
■この結果である私こそが思うことをし、考えることをし、思考することをし、計画し、知覚し、経験し、認識し、記憶し、希望し、
欲し、願い、そしてあるがままから良くなろうとしてあるがままを避けて逃避しているのだ、結果であるものから逃避し良くなろ
うとすることが、結果であり結果であることの特徴だ
■その結果の私とは思い、考え、願い、欲し、良くなろう、進歩しようとする、それしか結果であるものは出来ないのだ、
受容しあるがままであることがないし、あるがままであることがないのだ
あるがままから逃避するということは結果であるもののの特徴なのだ
■結果の私とは過去であり、過ぎ去ってしまっていることであり、既に起きてしまっている過去である。過去とは時間であり、
その時間・結果が未来を考えるのである、この私もどきが未来を心配するのは結果の特徴即ち時間なのである
そしてその時間とは、物語であり、あらゆる出来事であり、起こっている内部と外部である
結果とは結果しか見ることができない、結果とは原因を見る事が出来ないので、結果であるものは思考し、自らを基準にして
思考して「結果とは原因と異なっている」と思い込む
この思考するということが結果であり、結果の性質である、思考とは結果から生じている副産物であり、その特徴だ
その思考の特徴こそが主体と客体の分離、対象を認識することだ
それに引き替え「気づき」とは思考を、結果を結果として見守ることであるが思考の中には気づきはない、
ということは思考を思考として見守る若しくは照見する事が出来ないのである、
思考を思考として完全に見ることとは思考には出来ないのである、
その思考を見守るもの、思考を観照する者それは気づきである、
気づきが、この「気づきという観照者」が思考に気づくのである
結果には結果しか分からない、思考には思考しか分からない、質料には質料しか分からない、物質には物質しか分からない
結果は原因を分からない、起こっている結果は起こしている原因を知ることはない、何故なら結果だからだ
起こっていないことが原因であると言うことであり、既知ではなく未知なるものが原因であると言うことではないか
(その未知なるものがスクリーンであり、真の私であると言われているのだ)
その結果という時間ではなくて、過去・未来ではないもの・「今」といわれているものが、思考ではないこと即ち「気づき」
「在ること」であり
原因といわれるものはこの「気づき」「I AM」である存在普遍であるのだろう、絶対なるものが原因であると言われている
未知なるものが原因であり、既知であるもの、知ること、知られること、知りうることは原因ではない結果であるのだ
知ることや、知りうることのなかには原因はない、知ることや知ることの出来る知識や記憶や言葉や伝達可能な体験などの知覚の中
には瞬時の理解である原因はないと
その「即時の理解」と言われるものは時間に属さず、従って頭脳を超えている、非思考であり、非二元性、非対象なのである
その瞬時の理解とは知ることを超えている、結果である私を超えている、時間であるマインドを超えていると
それに引き替え、この結果である私は(過去である思考とは)過ぎ去った過去のことや、同じ過去の投影である未来の出来事
だけを、知覚される物語だけを知るに過ぎない、記憶だからだ
結果である私とは過去に過ぎず(過去の投影である)未来に焦点を合わせられている、そして出来事に巻き込まれている、
結果であり過去であるものが外部と内部に分割して認識してしまう、
結果とは結果であるものに巻き込まれているものである、
結果である私とは「結果である出来事・時間」に巻き込まれている、過去なるが故に未来に巻き込まれてしまっている
ものであり、その未来とは結果である出来事の一部なのだ、
だからこそ2012年のことを考えたり、心配したり期待したりするのである、2012年は過去の出来事である
そして結果は結果であるがゆえに必然的に結果を理解することもなく、見ることもなく、結果に一喜一憂し、結果やその結果である
投影された未来の出来事2012年に拘泥するのである、時間と云うマインドに焦点を合わせる事によってコントロールされてしまうの
である、「今ここ」ではなく過去の結果に・・・
それでは更にその結果である思考と言うものの特徴を考えてみたい
■その思考とは分類し、区別し、整理したり等級を付けたりするものである
■思考とは自分が一番だ、自分が一番正しい、自分は特別だ、自分が一番素晴らしい、自分が一番偉いと自惚れている、
自分自身であるにもかかわらず他人を批判し他人と比較して自分が偉いのだと高慢になっている、
それが一般的な通常の思考の私である
■思考とは恐怖そのものである、そしてその恐怖であるが故に自身を投影して恐怖が恐怖を認識しているにもかかわらず
「私が恐怖を認識しているのだ」と錯覚し、そのように怖れを自分ではないものと思い込んでしまう、
実際は怖れを抱いている恐怖そのものが私であり、この恐怖こそが恐怖から逃げようとして恐怖即ち思考である
■思考とは善悪の観点から考え、感じ、フィーリングで高低を区別したり、感覚やエネルギーで差別したりして認識するのである、
即ち善し悪しで区別するが、そのより高い認識と思われているフィーリングや感覚やエネルギーこそが思考の一形態である
■思考とは損得を常に計算し、自分にとっての利益を得ることだけを考え、損すること、失うことに焦点が合っている、私以外
の利益を考えることも思考である、利益という考えそのものが分離を前提にしているからである、関係性という概念は自他の分離を
前提にしているからである
■思考とは増減を測り、常に自分にとっての増減を考えている、快楽の増減を、苦痛の増減を
■思考とは常に快楽を追い求め、気持ちの良いこと、快楽と幸福を追求し、常に苦痛や嫌なことを避けている
■思考とは常に自分のものと自分ではないものとを分類して区別し、自分の利益しか考えない
■思考とは成功と失敗、上位と下位、勝ち組と負け組、勝利と敗北、頂点と最底辺とを分類し常に成功しよう、常に勝利しよう、
常に頂点にいようとし、一番であることを目指している、喜びと悲しみ、幸福と快楽と苦痛に巻き込まれ、実際は全てが結果である
にも関わらずに良くなっていくということの嘘、進歩成長という時間・過去に支配されその道具となってしまう
■思考とは、その思考自身を判断基準にして真理と非真理、真我と偽我に分割する、分割するしか出来ない
(あるがままのものであるものは真理と非真理、真我と偽我という分離区別を超えているといわれている)
■思考とは自分は偽我で真我ではない、自分はプログラムであり自由はないのだと言って自らを正当化してしまう、けれどもあるがま
まとは結果であり、同時に原因であるものであり、結果の中に原因があり、原因が結果であるにも関わらず、結果以外に原因を探そう
とするが結果の姿である、自己のなかにしか神はいないのに外に対象にそれを探求してしまうのである
■思考こそが真我と偽我に、真理と非真理に、あるがままとあるべきものとに、過去と未来に、一と全体、私と全てというように分割し
ている
■思考こそが起こるものであり、起きているものであり、時間であるものであり結果でありあるがままを受容しないものだ
結果の中にこそ原因はあり、あるがままの中にこそ原因がある
原因と結果を分けることが結果であり、「原因とは結果とは一つなるものである」が原因である
自我と真我はあるがままにとっては一つである、思考がそれを分割したのだ
自と他はひとつであるにも関わらず思考が自と他を分離して認識しているのだ
■思考と言う結果である自我の願っていることは安定すること、安全であることそして平安であることであり
良くなろうとすること、進歩しようすること、成長しようとすることであり、それが恐怖と不安そして葛藤の暴力、ひいては戦争の
原因でもある
その根底にはあるがままの拒否がありあるがままを受容しないことがある、良くなろう進歩しよう成長しようとするものとは継続と
存続を願っているものであり、その継続と持続を願うものが肉体の死を超えて自己の存続を願っている時間と云う結果である私である
この結果という時間・思考の働きこそが努力することである
その結果であるものは努力する、そしてあるがままを受け入れずに常に獲得しよう、進歩しよう、進化しよう、成長しよう、良くなろう
として神に近づき、悟りを開こうとし、神とひとつになろう、全体とひとつになろう、宇宙意識と融合しようとするのである
けれどそれ自体が既に今此処に、既に在るものなのにそれを得ようそれを獲得しようとしている
だからこそクリシュナムルティーは「良くなろうとすることは良きことの否定である」と言われるのだ、良くなろうとすること
それこそがbecomingであり、既にそうであるにも関わらずそれを求める続けている無知であるもの時間であるマーヤである
それが現象界を回転させているもの即ち無知であると言われている
この無知というものがあるがままを受容せず、悟りを開いて神に近づこうとしたり、真我と一体になって良くなろうとするのである、無知が
瞑想をしたり修行をしたりしているものである、この真我を実現しようとする働きこそがあるがままからの逃避の姿である無知の動きだ
この無知があるがままからの逃避をしており、実際のあるがままに対して(私は結果であるにもかかわらず)自分とは原因なのだと錯覚
しそのように悟った振りをしたり、実際に悟った様な経験をするのであるが、真実は虚偽の中にこそあり、虚偽の関門をとおっていくことだ
即ちこの実際の結果の私こそが真の私の入り口であり「私自身を知る」ことなくして私は生まれない
虚偽を虚偽と見ることの中に真理は在ると
この人生とは私が生きているのでもないし私の人生でもない、この私自身もこの私の人生も起きている結果であり結果という物語である
それにも関わらず自分が生きており、自分が考え、自分が行為していると信じ込み、そのように記憶し感じ知覚してしまうのである
そしてその結果であるものの必然的な動きである「あるがままからの逃避」が始まるのである
私とは結果であり、あるがままであり、このあるがままから逃避しようとしているあるがままであるものである、それが私と言う
ロボットの姿である
あるがままから逃げようとしている姿も結果に組み込まれていることである
あるがままを受容することもあるがままという結果に組み込まれている事であるに違いない
認識し知覚され意識されるものは私ではない、それは過去であり過ぎ去っているものであり今ではないと
聖なる事とはそこにあるがままを受容することが起こる事である、
それこそがあるがままを受容するというこの奇跡が起こっている聖なること
即ち愛が起きている事である
あるがままの受容とはあるがままをイエスと言える事であり、その受容こそは奇跡であり聖なる事であることだ
それは、あるがままを受容していないこの結果である自己の姿を完全に見切ったときに起こる事でもあるのだろう
結果には「なることはなにもない」のであると、既に実際は到っているからである、到っていないと思っているものが時間だからだ
到ることはない、なることはない、獲得することも何もないし付け加えることなど何もないのである
私達は結果であるからだ、そして既に原因であるからだ、しかしこれは信じることでも思う事でも創造することでも認識することでもない
この結果というあるがままを受け入れることの中に(この結果を完全に受容することの中に)こそ結果からの解放の可能性が
生まれるのである、だからこそ聖なる方々は教えられている
束縛を観ることが解放である
自我を観ることが観照者である
恐怖を観ることが喜びである
虚偽を観ることが真理である
二元・分離を観ることが真理であり非二元である
過去現在未来という時間を観ることが時間ではないもの即ち今である
偽りの私を観ることが真の私である
輪廻を見切ることが輪廻からの解放である
思考を観ることが気づきである
そして結果を観ることが原因であると
ニサルガダッタ・マハラジはいう
「観照意識が個人に働き掛けない限りは
個人が観察の主体よりもむしろ対象とならない限りは真我の実現は不可能だ」