頭脳の変換(手術・条件付けがはずれること)はどのようにして行われるか


クリシュナムルティーは以下の文で徹底的に

個人とは思考が創り出した錯覚であり

現在の頭脳の中身は共通で単一のマインドであり

自我(エゴ)・個人はそのマインドそれ自体が創り出した想念であり

その想念とそのシステム全体が「見られた」(正見)とき

初めから在った全体が「存在」すると言います

そのとき頭脳も条件付けが外れ、現在の頭脳は変換・手術され

全体を見ることが出来ると言います


    (以下はhttp://homepage3.nifty.com/~fwiv0294/から抜粋させて頂きました)

経験があります。

決定的段階の瞬間には「私」はありません。

それから、後に、思考が来て「それは面白かった、それは楽しかった」と言います。

そしてその思考は「私」を作り出し、それは「私はそれを楽しんだ」と言います。

危機の瞬間には、「私」はありません。それをわかってください。

さて、いつでも、その危機の真只中に生がありますか、生きることができますか? 危機は全体的なエネルギー

を要求します。どんな種類の危機もすべてのエネルギーの流入をもたらします。

しばらく、それをそのままにしておきましょう。私たちは後ほどそれを分解するでしょう。
(久保注:自我(エゴ)を分解ということか)

その瞬間には、「私」はありません。

あなたは過去のものを「私」として観察しますか?

過去のものの全体、数千年の人間の努力、人間の苦しみ、人間の惨めさ、混乱、何百万年があります。

その運動、その流れだけがあります。その巨大な河だけがあります―「私」でなく巨大な河が。その巨大

な流れはこれに、人間に現れます。

父親が私に形を与え、そこで私は「私」と言います。

それは形、名前、特有な環境ですが、その流れは「ミー」です。明かであるこの巨大な流れがあります。

K: 私はそれに至ろうとしています。
(久保注:クリシュナムルティー独特の言い方で、他者となって話している)
それは非常に答えるのに難しい質問です。
それはこうです。

人は非-全体観的な生を生きています。それは絶え間のないエネルギーの漏出、エネルギーの浪費です。

脳はそれに条件づけられています。

人はそれを実際に見ます。そのとき人は尋ねます。そうでない生を生きることが出来るだろうか? いいでしょうか?

Q: いつもではありません、あなた、それが私たちが探求していることです。その自由の香りが全体性であり得

るかどうか?

K: いいえ、それは決して全体性ではあり得ません。なぜならそれは行ったり来たりするからです。行ったり来

たりするものは何でも時間を意味します。時間は断片的な生き方を意味します。

したがってそれは全体ではありません。私たちが非-全体観的な生を生きているのを見てください。

脳はそのことに条件づけられています。

時たま、私は自由の性向を持つかもしれませんが、その自由の性向はなお時間の領域の中にあります。した

がってその性向はなお断片です。

さて、それ、非-全体観的な生き方、に条件づけられている脳が、その脳がもはや条件付けのやり方を生きな

いように非常に完全にそれ自身を変容させることが出来るでしょうか?

それはそうなのです。その決定的な瞬間には「私」はありません。

さて、私は尋ねています。「何時もその真只中で生きることが出来るだろうか?」

思考がやって来るやいなや、それはエネルギーの断片化を引き起こします。

思考それ自体が断片的なのです。(久保注:思考は全体性ではないと言うこと)

そこで、思考が浮かぶとき、そのときそれがエネルギーの消散なのです。

私はそれは途方もなく単純であると思います。はるかにもっと興味深く、はるかにもっと過酷なことは、思考が

生じるときはいつでも、そのときエネルギーの消散が始まるということです。

それゆえ、私は思います。「その真只中でいつも生きることが出来るだろうか?」 「私」が生じるやいなや、消散

があります。もしもあなたが「私」を取り除き、私も「私」を取り除くなら、そのとき私たちは正しい関係を持つでし

ょうに。

思考は記憶、経験、そのすべてです。

全体観的とは非常に正気な心と身体、考える明確な能力を意味し、そしてまた尊い、神聖な、ということを意味

しますね。そのすべてが「全体観的(holistic)」というその言葉に含まれています。

さて、私は尋ねています。「決して消散しない、あなたがそれから引き出すのを望むエネルギーがあるでしょう

か?」 それが全体観的でないとき消散があります。

全体観的な生き方はその中にエネルギーの消散がないものです。

エネルギーの消散の中の非-全体観的な生き方全体観的なものと非-全体観的なものの、脳細胞との関係は何でしょうか?

K: 脳細胞とは関係がありません。それをよく見ましょう。

「全体観的」というその言葉の意味を私たちが理解するということを、私は極めて明確にしたいのです。それは

完全、全体、調和、分裂のないこと、断片化のないことを意味します。それが全体観的な生です。それは無限

のエネルギーです。

-全体観的な生、断片化した生、はエネルギーの浪費です。

全体の感覚があるとき、「私」はありません。

もうひとつは思考の、過去の、時間の運動です。それが、私は二つの状態、全体観的なものと非-全体観的な

ものがあると言いました。
(久保注:分離と全体性もしくは二元性と非二元性と言っても良いかもしれない)

-全体観的なものは明確に脳細胞の中に保持されています。なぜなら、それは挑戦され、はずみを与えてい

る、脳細胞に保持されている過去のものの流れであるからです。

私は尋ねています。全体観的なものの脳細胞との、そして感覚との関係は何なのでしょうか?わたしたち生、

私たちの日常生活です。そしてその生は報償と罰であり、満足を求める絶え間のない追求です。

いま、私たちの脳細胞は過去、記憶、経験、数千年の知識、を含有しており、それらの脳細胞は全体観

的ではありません。
(久保注:現在の人類の全体頭脳は非常に条件付けられており全体観ワンネスを見ることが出来ないと言う意味か)

DS: ええ、それらは分離した細胞です。

K: それらは全体観的ではありません。そのことに固定しましょう。彼女の脳細胞はいま非-全体観的な生き方

に条件づけられていると言っています。

全体観的なやり方があるとき、脳細胞の中に何が起こるでしょうか? それが彼女の質問です。

DS: 私はそれを違ったふうに述べたいのです。

私は、「知覚の全体観的な状態の中で、脳細胞との関係の中に何が起こるでしょうか?」と言いたいのです。

K: 私はその質問に答えようとしています。全体観的な脳は過去を含有しているでしょうか、したがって過去は

全体観的に使われることが出来るのでしょうか?

それは全体であるので、部分を含んでいます。しかし部分は全体を含むことは出来ません。

したがって、部分の作動があるとき、エネルギーの消散があります。人間の心の構造である脳の中で、

その場所は何でしょうか?


K: 私たちは非-全体観的な生き方だけを知っています。それを離れないでください。それが事実です。私たち

が非-全体観的に、断片的に生きているということが。それが私たちの現実の生であり、それはエネルギーの

浪費です。

私たちはまた、矛盾があり、戦いがあるということを見ます。

それのすべてがエネルギーの浪費です。さて、私たちは尋ねています。「エネルギーの浪費でない生き方があ

るでしょうか?」
 

私たちは非全体観的な生き方、断片的な生、ばらばらになった生を生きています。あなた、ばらばらになったと

いう言葉によって何を意味しているか理解してください。ほかの何かをしながら、何かを言うこと。静寂の瞬間を

持っていて、矛盾しており、比較に基づく、模倣的な、
(久保注:知識を集めたり、グルに従ったりすること)順応する生。それ

は断片的な生き方、非-全体観的なやり方です。それが私たちの知っているすべてです。

そして誰かが言います。浪費されないエネルギーがあるでしょうか? そしてその質問で、この生き方を終らせ

ることが出来るかどうかを見るため、それを探求しましょう。私はそれに至ろうとしています。それは非常に答え

るのに難しい質問です。

それはこうです。人は非-全体観的な生を生きています。それは絶え間のないエネルギーの漏出、エネルギー

の浪費です。脳はそれに条件づけられています。
(久保注:現在の条件付けられた人類脳はインプットされるエネルギーを極度に変圧し、変形し、下落させると言うことか)

人はそれを実際に見ます。そのとき人は尋ねます。そうでない生を生きることが出来るだろうか? いいでしょうか?
DS: 私のそれに対する反応はこうです。ここでは断片化の状態にあります。ここではエネルギーの消散の状

態にあります。そしてそこでは満足を求めています。

K: いいえ、私はそうではありません。私は、これはエネルギーの浪費であると言っています。

DS: それが私たちの知っているすべてでありほかに何もありません。

K: ええ。ほかに何も。そこで、脳は言います。「よろしい。私はそれを見た。」 次にそれは質問をします。「この

すべてを変えることが出来るだろうか?」

DS: 脳がそれを尋ねることが出来るかどうか、私は疑わしいと思います。

K: 私はそれを尋ねています。したがって、一つの脳がそれを尋ねるなら、ほかの脳もまたそれを尋ねるに違い

ありません。このことは満足に基づいていません。

DS: どうしてあなたが述べることについての質問を、満足を求めることなしに尋ねることが出来るかについて、

何か言ってくださいますか?

K: 脳はそれがもてあそんできたゲームを自分自身で理解したので、それが尋ねられ得るのです。

DS: それで、どんなふうに脳は質問を提出すればいいのでしょうか?

K: それはそれを尋ねています。なぜならそれは「私はそれを見通している。」と言うからです。いまや、それは

言います。「非-断片的な、全体観的な生き方があるだろうか?」

DS: そしてその質問はどれにも劣らず全体観的です。

K: いいえ、まだそうでありません。

DS: それが私が悩んでいるところです―何処からその質問が来るかが。それは満足を求めていない、それは

全体観的ではないとあなたは言います。では、どんな脳がこの質問を作り出しているのでしょうか?

K: 「私は非常に明確にエネルギーの浪費が見える」と言う脳。

P: 脳は断片化の問題全部を見通しているというあなたの言っていることの事実そのものが...

K: それの終りです。

P: それは全体観的ですか?

K: それの終り、それは全体観的です。

P: 終ることは断片化を見ることそのものです

DS: それは全体観的なのですか?

K: それは全体観的です。しかし彼女はとても多くの複雑な質問を、全体観的な脳に関して尋ねます。それは

過去のあらゆるものを吸収して、過去、過去の全体、過去の本質、その精髄を含有しています。それは何を意

味するでしょうか? 過去は無ですが、その様な脳は過去を使うことができます。これがおわかりかどうかと思い

ます。私の関心は人ひとりの生、現実の、日常の、断片的な、おろかな生です。そして私は言います。「それは

変容することが出来るだろうか?」 より大きな満足にではなく。その構造はそれ自身を終りにすることができる

でしょうか? より高い何かを課することによってではなく、それはまさにもう一つのトリックです。

あなたが観察者なしに観察することができるなら、脳はそれ自身を変えることが出来ると私は言います。

(久保注:頭脳を変える唯一の条件は観察者なしに観察することであって、頭脳をこのワーク無しに外部から手術することでは不可能であるということ)

それが瞑想です。あなた、本質は全体です。断片化のなかには、何の本質もありません。 あなたは尋ねてい

ます。中心
(久保注:自我(エゴ)という意味)からではないエネルギー、原因のないエネルギー、無尽蔵であり、したがっ

て非機械的なエネルギーがあるかと。私たちはあることを発見しました。

すなわち、脳は、数千年を通じて、中心(久保注:自我(エゴ)という意味)から外周へ、また外周から中心へ、それを広

げ、それを限定しながら前後に動くように条件付けられて来たのです。

そしてその運動を終わらせるやり方があるでしょうか? 私たちはたった今、停止があるとき、栓が引き抜かれ

るとき、それは終わると言いました。

すなわち、脳はその方向への運動を停止しますが、(久保注:この場合は思考の停止の事を言っていると思われる)

停止のための何かの原因があるなら、あなたは円の中(久保注:思考のサークル又は範囲の中にと言う意味)に再び戻って

います。それはあなたに答えているでしょうか?

すなわち、数千年にわたり、中心から外周に、また外周から中心に活動するよう条件づけられて来た脳は、そ

の運動を停止できるでしょうか? さて、次の質問はそれは可能なのか?でしょう。おわかりですか? 私はそれ

は間違った質問だと思います。
(久保注:その方法を尋ねること自体が、その終わらせようとしている思考・自我(エゴ)から出ているということと思われる)

あなたが停止の必要性を見るとき、脳それ自身が運動の停止する必要性を見るとき、それは停止します。

私は明確にしているかどうかなと思います、脳細胞は秩序を要します。さもなければ、それらは神経症的に、破

壊的になるでしょう。それは事実です。脳細胞は常に秩序を必要としており、中心
(久保注:自我(エゴ))は常に断片

化を作り出しています。脳細胞は秩序を必要とします。

この秩序は中心があるとき否定されます。なぜなら、中心は常に破壊、分離、葛藤その他をつくり出しているか

らです。それは安全の否定です。それは秩序の否定です。

二重性はありません。この過程は続きます。「私は秩序を持たなければならない」と言う脳は二重性ではありま

せん


















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