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俗義と勝義


教えには、二つの教えがあるといわれる。表面の教えと奥の真実についての教えである。

それは俗義の教えと、勝義の教えの違いといわれていることがらである。

俗義の教えとは、「自分が行為している」と信じ、「自分が生きて生活している」と、自我の自分のことを自分自身だと、その

ように実感している人たちへ向けての表面上の教えのことで、日常の思考によっても分かる教えである。

勝義の教えとは、この知覚や思考や自我のことを正見している立場である「真の私」から説かれている内奥の教えであり

思考によっては理解する事が難しい教えである。

この教えとは思考によっては、正しくは理解出来ない教えであるといえる。

ラーマクリシュナやシャンカラや老子などの不二一元の教えがこの勝義の教えであるといえる。


この勝義の教えというものは、未だ肉体や知覚や思考や自我のことを、それらは私の外部であって内部ではないと、

はっきりと正見していない段階の私達に向かって、語られるとき、聞き手の側では誤解が生じてしまうこととなる。


その最たる例はクリシュナムルティーの教えであるといえようか。

彼の語っている教えとは、勝義を理解する段階ではない私達が、思考で理解しようとすると殆ど誤解に陥ってしまう

こととなるのである。

自我のことを自分自身であると実感している私達俗義の方が、クリシュナムルティーの「見るものは見られるものである」

との教えを聞いても、それを正しく理解することはできない。

同じくクリシュナムルティーが選択は観念だ、といっても勝義の真実とは俗義の現実ではないので、その俗義の人を

勝義へと現実へと導かない・・これがクリシュナムルティーを学ぶ人の現実である

なぜならば、それは勝義の教えであり、思考の段階ではなく、思考を正しく見る事の出来る段階の方々に向けての教えで

あるからである。クリシュナムルティーの教えは間が抜けているのである。

即ち、そのクリシュナムルティーの教えとは、自分自身のことを自我ではないと実感している段階である方々へ向けての

真の私からの実感としての表現であるからであるといえようか。


勿論、その勝義の教えとは、その段階にある方々へ向かって語られている事柄であり、その段階ではない私達が

それを聞いた場合は、必然的に自我の立場から、その教えを曲解し、誤解することとなってしまうということが、よく精神世界では

見うけられる。

特に、それは、このクリシュナムルティーでの教えのなかでは顕著にみられるのだ。

それは即ち“自己観察”という事である。通常の私達のレベルでは自分自身のことを自我だと思っているので、当然このレベルでの

自己観察とは自我の発見には欠かせない事ではある。しかしこのレベルでの自己観察では自己発見へと結びつくことがないのだ。

自己を対象として観察しているのは、“私ではない「私と言う観念」”である自我であり、それは本当の私ではないからである。

正しくいえば、本当の私であるなら、自己観察などしたりはしないと言うことである。

本当の私とは自我を対象として観察などしていない。なぜなら愛の中には、分離している観察対象などは存在していないからであると。

真我とは全てを愛しているからであり、真の私とは愛だからである。愛の中には分離などはなく、従って真の私には観察対象とは存在

していないのであるといえる。愛の中では対象は存在していないのだ・・・。


自我を観察するという自己観察が行われている中では、観察している者である私とは、対象である自我を自己とは別だと知覚しており

私という主体が、対象という自我を観察し、観察行為をしているという・・・というような実感を伴っている。

その場合のその自己観察している私とは、対象として客体である自我であり見られている自分とは別物だと見ているのであり、主体と客体に

分離している。だから自分を良くしようとしたり、自分を変えようとしたり、自分に失望したり、自分から逃避しようとしたりし始める。


しかし、そのように自分とは別に自分の事を対象として見ていること自体が、その観察している私とは真の私ではないことを証明している。

このことを正しく見ている場合とは、それは即ち観察されている対象である自我とは、実はその自我を見ている私そのものであり、

観察している私とは、観察されている自我に他ならないのであることが分かる。自分を観察者と観察される自我の二つに分離しているのである。

そのいづれの両者とも真の私ではないところの思考なのである。その思考こそが私と言う観念である。

「私と言う観念」が観察者であり観察されている自我なのである。それが二つに自らを分けているのである。主体と客体に別れたのである。

観察している私とは、観察されている私なのであり、同一の思考が、(その記憶が)観察する側と、観察される側に別けているだけである。

その主体と対象に分離しているということがその思考自体の特徴なのである。それが自我であり、二元であり、神のマーヤなのである

とそう思われる。

・・・・・以上のことを、クリシュナムルティーは非常に簡潔な言葉で「観察者は観察されるものである」と表現したのである。

であるから観察者の私も観察される対象の私も、観察すること自体も、真の私ではない。真の私には対象として観察したりすることは

ないからである。


これらのことは、クリシュナムルティーによって勝義の立場から言われているように、「見るものは見られるものである」ということであり、

同じように古来から「わたしはそれである」とウパニシャッドでも言われているのである。

もし真の私であるならば、決して自分や他人のことを対象として観察したりはせず、非分離の状態の中で、対象化せず、思考でなく全てを

自分自身として見ていると言うことなのであろう。

それはラマナ・マハリシの言うように真の私とは、対象がなく対象を見ることはない・・と言うことであり、真の私とは思考ではないという

ことであろう。

思考が自己を対象として自己観察している主体なのであり、同時に観察されている対象でもある。思考とは神の道具であると言われている。

思考の生み出している私・・思考である私・・・記憶である私・・・それは真の主体ではなく、「私と言う観念」の働きだということである。

見る者と見られるものの分離・・それこそが無知である「私と言う観念」の特徴であると言われているからである。



真の私であるなら、決して自分や他人を対象として観察したりはしないと、なぜなら真の私には分離している対象が無いからであると・・

真の私であるなら、自我の本質である「私と言う観念」の働きを看破していることであろうし、その看破している叡智は愛である純粋理性で

あるから、愛の中では対象はなく、自分と他人の分離もなく、従って当然ながらも主体と客体の分離もないと。

その愛の中では、如何なるものも、決して私とは分離しておらず、その段階での見ている私とは真の主体であるから、すべてに自分自身を見

ている事となるのだろう。

それなので覚者方は、そのときの真我である私の状態のことを「わたしはそれである」と言われるのである。


この朝ベッドから目を醒まし、夜には、またベッドで熟睡し、夢を見ているこの私とは、自分を肉体だと思っている私である。それは肉体の

脳の私であり、霊的諸体の脳の私でもある。熟睡とは魂の状態であるけど、その魂の意識それが意識化されないのは肉体脳と諸体の脳が

透明化されていないからである、現在意識とは肉体脳と諸体の脳の連携結合で成立しているので、その連携に付着物がたくさんあって

透明化されておらず、魂の知覚も、真我の知覚も現在意識に意識化されない結果となってしまっているのである。


それらの脳に覆いかぶっているもの、それが「私と言う観念」というものであるだろうし、その自分を肉体だと思っている観念とは、無知と

いわれているものであり、神の演技と言われている自我であるのだろう。

その「私という観念」は、観察者や観察対象というものを生み出し、分離している愛の乏しい目で、即ち思考で思考の自分自身を観察したりする。

それ故に、そのような自己観察では自我を傷つけてしまい、癒す事が出来ないのである。

そのような自己観察では、自我をますます、強めてしまう結果となり、果てはノイローゼになったり、統合失調症になったりするのである。

真の私とは自我を観察したりはしないのである。わたしは自我を愛している。真の私は主客に分離しておらず、対象がないのである、それは自我が

いないからであると教えられている。



ラーマクリシュナは言う、その無知である「私と言う観念」も神の演技として神によって使われているのであると

自我とは、神の使用している演技であると、この分離している思考や記憶を生み出している方が根源である神であり

その神は内奥において自分自身と分離していないのだ、ということを・・・ラーマクリシュナは教えてくださっているといえようか



要は、主体そのものが、俗義と勝義では異なっており、当然のことながら教えも異なっているということである。

俗義での主体とは、即ち俗義で言う私とは、根源からマーヤによって生み出された「私と言う観念」のことであり

その観念が肉体と同一化し、記憶となっている私のことを、自分自身であると実感している主体だということである。



勝義での主体とは本当のわたしのことであり、この真の私は「私と言う観念」から生み出された自我というものは、二元性を

支える神の演技であると言うことを看破し、実感している。

そこの段階では真実の目が開眼しているし、真の私が主体となっているのであるといえよう。

しかし、この自我と真我という区別そのものが真我には存在していないのである。とも言われている。

真我にとっては、この自我も真我の一部であり、真我から見た場合はなにも分離していない。

全てが真の自己の一部なのである。「わたしはそれである」のである。


私たち、自分が生きていると思い、自分が行為していると実感し、実感されている現在のこの私

自我や、この自我の思考や苦しみや、感情を自分だと信じているこの主体とは、決して真の私ではなく真の主体でもない、ということだ。

その自分の事を肉体であり、他人とは別存在だと思い込んでいる私とは「私という観念」であると言うことである。


真の私とは、思考ではなく、勿論肉体ではなく、行為している私でもなく、知覚している私でもなく、対象を持っている私でもない。

自己を対象としてとらえて自己観察している私でもなく、観察される私でもない、私とは「私と言う観念」の私ではない。といわれる。

「私と言う観念」の私、それらの私とは、意識の座である真の私のスクリーンに映し出されている心の働きであるに過ぎない

ということではないだろうか。


それ故にこそ、如何なる次元が、私達にとって現実の次元か、が問われている。

俗義である私の実存が問われている。

行為をしていると思っている自分が自分だと感じられている「私である段階」であるなら

それは俗義の私が、実存の段階であり、私、と思ったとき反応しているのは、肉体を私だと未だ感じている私であり、その段階が

現実の実存の私なのである。

その状態では、クリシュナムルティーのいうように「選択はない」「選択は観念だ」と言明している私とは、現実に取っては未知なる私である。


この未知なる私と既知なる私の融合こそが私達に求められているのではないだろうか。

それこそが古来からの道であり、それは真我への無私の信仰であり、真我への信頼であり、真我への帰還なのである。

自分に戻ることだ。



またその真我の学びとは、‘現実の私達とは行為の次元にいるので’、自らが「万物へ愛である行い」を行為することでもあるのである。

「真我である私」の行為とは、真我とは愛であるのだから、人を愛すること、万物を愛すること、これが真我の行為であり、無行為に他ならない。

真我である内奥の神の行為を真似ることが、最大に人間にとって必要不可欠なこととなる・・のではないだろうか


行為していると実感している俗義の私達にとっては・・どうあるべきか?、どのように行為すれべきであろうか?

それは愛するということであり、自分を愛するように他人を愛することである。・・・この愛することこそが真我を愛し、未知なる私に帰還しようと

している私達の必然の行為なのである。クリシュナムルティーの言う非選択・非行為とは、現実では、まさしく万物を愛することであったのである。

この態度こそ、行為していると実感している現在のパーソナリティーに於いては(俗義の私たちにとっては)神の御心が天において為されているように

地にも成らしめ給えと、万物を愛する事なのである・・

この人を愛するという行為が・・この行為こそが勝義の立場の方々の言う「私は行為していない」「神が行為している」ということの、こちら側からの

正しい解釈なのである。


クリシュナムルティーを読んで生半可に学び、分かったつもりになって、「行為は観念だ、選択は自由を否定している」などと言って、現実の危機がき

ても手を拱いており、実際にはそれが来たときに真っ先に「他人のことを心配しないで自分だけ現場から逃げ出す」ような虚偽の方が散見されている、

もし、混雑する路上で、自分の目の前に気違いが刃物を持って暴れ出したらどうするのであろうか?

・・それゆえに、現今の社会のただ中に於いて正しい非行為の目を持つことの緊急性が求められるのである。

俗義の私達にとっては、勝義が現実となることを示す実際的なアクションが必要なことは論を待たない。

それはいくら正しい教えの観念でも、観念である限りは、観念を超越できず、それは観念を超越した次元ではないと言うことなのである。



本を読んで理解したつもりになり、クリシュナムルティーの教えの「教え自身の想念形態エレメンタル」の観念の中で、生活しても、それは幻想である。

その観念世界で自慰行為を重ねていても、それは決して「選択のない、自由である非行為」である現実の勝義の私へは導かないことであろう。

ドアをノックしてくださっているのは真我であり、私達はそれに答えてドアを開ける努力と行為が必須なのである。それが非行為へと至る行為である

といえるのではないか。