雑念
雑念を見て知覚しているのは雑念それ自体ではないだろうか
イライラを見て、イライラを知覚しているのはイライラであり
恐怖を、見て、感じ、知覚しているのは恐怖である。それは現在のパーソナリティーではない。
私である魂ではない。
そして
その雑念や恐怖とは「心・マインド」であり、それは魂や、その一部である現在のパーソナリティーではない
その「心・マインド」とは必ず主体と客体に分離されており、自らを分離して知覚し、知覚されるものである。
雑念や恐怖も、「心・マインド」であり、その雑念と恐怖を知覚している知覚主体というものを同時に生み出して
いるのがマインドの特質であるのである。
そうして、そのような状況下において、マインドに出会った現在のパーソナリティーはそれに対して
雑念や恐怖という「マインド」を対象として捉え、そのマインドであり記憶である自己と同一視してしまい
自分をなんとかしよう、自分にその様な雑念や恐怖が起こらないようにしよう、自分は良くならなければと修行をしたりする
現在のパーソナリティーは、その雑念や恐怖を見て、その雑念や恐怖、およびそれを知覚している記憶である知覚者を
なんとか変えようとしたり、良くしようとしたりするのである。
(けれども、その知覚者とは恐怖を知覚している恐怖そのものでもあり、その恐怖や雑念の知覚者とは
その恐怖の記憶が生みだした人格や個人であり、それは現在のパーソナリティーではないものである)
雑念や恐怖を対象化し、対象としての誤った方法で観察し、認識しているのは現在のパーソナリティーである。
雑念や恐怖もその知覚も、すなわち知覚する者も知覚される対象も現在のパーソナリティーではない。
それは「心」である。
クリシュナムルティー風に言えば観察者は観察される者であり、それは心であって魂ではない、私ではない
それはマインドであって現在のパーソナリティーではない。ということだ
現在のパーソナリティーとは「魂」の現在意識として機能している意識部分でもあり
身体や脳に於いてマインドと接触している。マインドの知覚とマインドである知覚されている思考に接触しているのだ
現在のパーソナリティーとは葡萄の木にたとえるならば、木に撓わに実った一房の葡萄のなかの一粒の葡萄の
皮の部分であるといえようか
その現在のパーソナリティーという魂の一機能が、この雑念や恐怖と、その雑念や恐怖である知覚者・記憶
(その記憶・個人の反応)を現在意識に於いて自分自身だと錯覚している。
雑念や恐怖も、そしてその雑念や恐怖を知覚しているものも、記憶である個人も現在のパーソナリティーではない。
知覚する者も、知覚の対象も心が生み出しているのである。それは私ではない。
私とは魂であり、魂の一部分である現在のパーソナリティーであって認識しているものであり
肉体や、それらの言語器官や、感覚器官や、思考器官や知覚器官そして、そこに起こっているそれらの記憶
作用ではない。
現在のパーソナリティーという魂の一機能であるものが、その雑念と雑念自体である知覚を見て
間違った方法で観察して、自分自身と錯覚しているのである。肉体や思考器官などの諸体を自分だと錯覚しているのだ。
現在のパーソナリティーが自分ではない雑念や恐怖と、その知覚を自分と自己同一視しているのである。
だからこそ私達、現在のパーソナリティーは自分自身の内側を見るべきではないだろうか
自分自身の故郷を思い出すべきではないだろうか。魂が自分自身であり、魂は真我の部分なのである。
到達したり、獲得したり、何かになったり、真我実現するのではなくて、
自分の内側に真実の自分自身がいるのではないだろうか
それこそあなたや私の中の真の私である、ただ一つの真の私ではないだろうか。
と