私のからだ・・・?!





からだとは、全てのものが一つなるものによって創造されているのと同じく

一つなるものによる最高傑作であり

「私のからだ」だ、とはいえないのではないでしょうか。

知覚している私とは、からだの私であり、脳が生み出している私だからです

脳や心も思考も最高傑作だからです

果たして「私のからだ」だと思っているその私・自分・個人とは

そう思っている当の私のものなのでしょうか?

私自我とは、そもそも私自我のものなのでしょうか?

私自我とは私自我が生み出したものではありません。

この現在意識の私・自分・自我には、

到底、「私は個人である」「私の肉体だ」「私の思考だ」

という自我は生み出せないからです。



この自我である個人であり、現在意識の私とは、(思考を自分と思って)自分を反省し、自己を対象

として観察し

「肉体や諸身体である感情や欲望や思考を私だ、自分の欲望であり、それは私だ」と思っている私であり

それは肉体と同じく生み出され、そして「根源によって演じられ表現されているもの」

なのではないでしょうか?


それは思考活動や高級から低級までの諸々の感情や欲望や感覚、

微妙なる心の襞、深い感動や素晴らしい芸術作品が

脳や心やDNAを通じて生み出されているように

個人である私という自我も根源によって表現されているものなのではないでしょうか

私・自我は、この個人である自我には生み出せないのです。

私自我とは根源の表現作品=心だからです。

脳や思考や感情や感覚や記憶や欲望や知覚などが、生み出されているのと同じように

個人自我である私も、その根源→心→脳によって生み出されているものなのではないでしょうか?

その生み出された自分が、これまた生み出された思考や欲望や感情や起きている出来事を自分

のもの、自分が行為・カルマの原因だと勘違いして思い込んでいるのです。


実はこの自分・自我こそが「一つなる完全であるもの」の最高傑作の一つであるのだということ・・・・

根源がこの自我を使って行為をされ、脳を使って思考され、出来事と物語を起こして、悩み、苦しみ

感動されているのだということ。

根源はこの「私自我という観念」が持っている自由意志を使って自由に行為し演じておられる

のだということ

それを私・自分・自我は自分が思考し、自分が選択し、自分が行為していると錯覚しているのだと言うこと


為す事と、生きる事、考える事は呼吸することと同じく、根源によって起こっている事なのでは

ないでしょうか。ただ一つの根源が私自分として踊り、話し、歌い、喜怒哀楽をしているのです。

私=自我という観念も、この「「私という観念」」の感じる事や、考えることや、記憶することや、呼吸す

ることや生命も、同じく根源によって起こっている事なのではないでしょうか


ラーマクリシュナは言っています

 「心の働きがなくなれば、その状態になれます。

 心の働きが消滅すれば、いつも私の、私が、としがみついてる我性、それがな

 くなるのです。」


 「けれども、この我性というものがあることによって、人は絶対の有・ブラフマン、

 実在、智慧、歓喜を知ることが出来るのです。

 私という意識はなくなりません、だからこそ召使いの私、信者の私になるのです。」


 「絶対の実在、智慧、歓喜であるサット・チット・アーナンダが覚醒の感覚を味わう

 ために個人や個我を造られたのです。 じつは個人我とは最高我なのです。」



この私が・・・、俺様が、私の、私のものと叫んでいる自我こそが、根源が身に纏って演技している

衣裳であり、仮面なのだということがここでラーマクリシュナによって言われております


私が恐怖を知覚しているのではなくて、恐怖を「知覚している私」が恐怖であり

実際には恐怖が「私という個人自我感覚そのもの」なのであり、分離している心なのではないでしょうか

それ故にこそ、その恐怖とは、恐怖を知覚している「恐怖・私」であり、恐怖が恐怖の観察者と観察されるもの

という分離対立を生んでいるのではないないでしょうか


恐怖・・それは根源が使っている衣裳であり、根源の芸術作品なのではないでしょうか


私が瞑想して、修行して悟るのではなくて、その悟るべき私がどこにもいないのです。

自我の私は根源が演じているのです。

瞑想も修業も、この自我を使って根源が行為されているのではないでしょうか、

瞑想をしているのは根源であり、瞑想をしていないのも根源なのではないでしょうか。


進化する私も、「父」の元に帰還する私も、良くなっている私も、堕落する私も

悟る私も、悟らない私も、到達する私も、到達しない私も「あなた」の演技なのではないでしょうか

それらの無限にたくさんある私達を使って、あなたが表現されているのではないでしょうか。

私達の自由意志、行為感覚、知覚や感覚を通じ

私達という衣裳を纏って演技しているのは全く同一普遍の「あなた」なのではないでしょうか。

自我である私達とは決して主体ではなくて、主体とは分離なく見ている意識なのではないでしょうか

それにひきかえ、この自分・個人・現在の私とは、わたしではなく

あなたの表現媒体であるところの「主体と客体に分離している心」の一部なのではないでしょうか

真の主体とは、意識であり、「未知なる私」、真の私であるといわれます

だからこそ

「本当の私とは未知なる私であり、思考や心という対象を持っているものではない」と言われます

対象を持って、知覚しているのはあなたが演じておられる分離している二元の心・自我です

・・・・・そのように考え信じているこの私も、根源が起こしているのです。

この私とは,ほかのすべての人類の私と同様に、根源の起こしている演技なのではないでしょうか

そして本当の主体であるわたしとは、普遍であり観照している意識なのではないでしょうか

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