「在る」わたし!
在るについての以下の教えがある。
私が在ると思っているものは思考であって私ではない。
「在る」は思考ではないから、自分が「在る」とは思わない。
「在る」と思うのではない。
既に「在る」のであって
「在る」と思っているのではない。
「在る」と思う、思わないに拘わらず、既に「在る」のだ。
「在る」!
「在る」になろうとするのではない。
「在る」ようにと、したりするのではない。
「在る」は、在ろうとはしない。
在ろうとしているものは、自我(エゴ)であり、私と言う観念であり、それは思考である。
その在ろう、といろいろとする事は「在る」から遠ざかっていく事である。
「在る」とは、決して在ろうとはしない。既に在るからだ。
「在る」とは、なるのではなくて、在ろうとする事ではないからだ。
「在る」とは既に在るのであり、在ろうとすることは思考であり、成ることに属している。
成ることは、時間であり、マーヤに属している。マーヤの属性である。
成ることは、起こる事であり「在る」ことではない。
在ろうとして行為しているのはわたしではない。
わたしは、「在る」から、わたしは、行為する事がない。
わたしは肉体ではなく、
肉体を私だと思っている「私と言う観念」でもなく、
肉体に縛られている知覚でもない。
わたしは真の私を愛している“思考ではない「目」”である
非難なく見ている目である。
真の私を見ている目である。
わたしは、
“その肉体を見て、「肉体を私だと思っている私と言う観念」”のことを、
そして
その「私と言う観念」を自分だと信じている現在のパーソナリティーのことも
わたしではないと知っている。
わたしは、それらのわたしではないものを、あるがままに非難なく、判断なく
みている純粋なる非対象・非思考の目である。
わたしは目そのものであって、肉眼や霊眼ではない。
わたしは観照している目である
現在のパーソナリティーにとっての未知なる目である。わたしは鏡である。
行為は聖なる根源が為していて、
行為していると思っているのは、その根源の道具である「私と言う観念」である自我である。
しかし、自我は行為しておらず、根源の使っておられる自分が行為していると思っている
「私と言う観念」である。
わたしである統覚機能はそれらを映し出している鏡である。
・わたしは肉体や諸身体や、その欲望や思いではない。
肉体や、諸身体や、その欲望や、思いはわたしではない。
わたしはそれらをただただ見ている純粋なる気づきの意識である。鏡である。
・わたしは欲望や恐怖や不安や希望や絶望ではない。
欲望や不安や希望や絶望や衝動はわたしではない。
わたしは、その欲望や恐怖や不安や希望や絶望を衝動をただただ、
非対象から見ている純粋なる意識である。
わたしは内部と外部という両面に起こっている事を、思考なく観照している気づきの
意識である。わたしは鏡である。
・わたしは行為していない。行為しているものはわたしではない。
行為は根源が為している。
行為はただただ起きているものである。
わたしは行為を非対象で見ている気づきの意識そのものである。わたしは鏡である。
・わたしは思考していない。従って思考がないとき、そこに澄み渡った静寂がある。
思考しているものは、わたしでなく思考である。
わたしはその思考を非対象の目でただただ見ている。その見の中には思考がない。
思考がないので見る者も、見られる者もない。分離がない。実在だけがある。
わたしは非対象の気づきの意識であり、わたしを知覚の対象とすることは出来ない。
知覚とは思考であり、二元であるから、思考が無いとき分離した知覚も二元もない。
わたしは鏡である。
・わたしは記憶ではない。記憶しているものはわたしではない。
それは記憶である。自我である。
わたしはその記憶を非対象の目としてただただ見ている。
わたしは鏡である。
・わたしは脳ではない。脳を経由している心や思考はわたしではない。
わたしは脳をただただ見ている「見」である。わたしの見は脳に左右されない
思考は脳がないと機能しないが、意識は脳がなくても機能している。脳に拠らないから。
わたしは鏡である。
・わたしは個人人格ではない。
個人人格はわたしではない。個人人格は根源が使っている「根源の演技」である。
わたしは個人人格をあるがまま見ている「気づきの目」である。
わたしは鏡である。
・わたしは自我ではない。あなたはわたしである。
自我はわたしではない。自我は神の道具であり、神によって使われている「自分が行為して
いると思っている私」であり、その私とは、わたしではないものである。
わたしは自我を非難せず、自我から逃避せず、ただただ非対象の目でみている。
わたしは鏡である。
・わたしは五感ではない。五感はわたしではない。わたしはその五感を自分の感覚だと思っている
ものを、ただただ見ている純粋なる意識である。
わたしは鏡である。
・わたしは知覚ではない。知覚はわたしではない。
わたしは知覚を見ているものであり、知覚を自分の知覚だと思っている心をみている。
わたしは鏡である。
・わたしは想念ではない。想念はわたしではない、想念は心から来ており、心は二元から来ている。
わたしは二元ではなく想念ではない。
・わたしは心ではない。心はわたしではない。
心は二元から来ており、わたしは意識の気づきであるから二元ではなく心ではない。静寂である。
わたしは鏡である。
・わたしは肉眼や霊眼や超視覚で見ているものではない。知覚は思考のものだ。
わたしは知覚を超えた「目」である。
肉眼や霊眼や超視覚でみているものはわたしではない。
わたしは目で見ているのではなくて、目を見ている「目」だ。
その眼球や、視神経はわたしではなく、その網膜も、それを知覚として伝えている脳も、
その視覚を知覚しているものもわたしではない。
わたしはそれらの起きている聖なる現象をただただ見ているものである。
わたしは鏡である。
・私を見ているわたしは、内部も外部も等しく、起こっている事として、非対象の目でもって
ただただ見ている。
その目には、起こっている出来事は外部であると同時に内部でもあり、それらはともに
マインドであり、内部も外部も、ともにわたしではなく、起こっている出来事である。
わたしはその外部と内部を等しくあるがままに、ただただ見ている非対象、非思考の
静寂なる「目」である。わたしは鏡であり沈黙である。外部は内部であり、その内部とは
わたしの外側である。わたしの内部とは対象であるものではない。
わたしは純粋なる見であり、意識の目であり、非対象であり、主体である。わたしは在る。
わたしは鏡である。
わたしが実在しているからこそ、わたしではない自我が,外部へと投影されるのではないか
それが、わたしの前のあなたであり
そのあなたとはこの自我を映していても
わたしが真の私であるとき、あなたも真の私となるのではないか。そこには
分離している私もあなたもいない、ただ一つの大いなる真我だけがある。という。