ヴエーダーンタ哲学
                         ヴィヴェーカナンダ

 今日一般にヴューダーンタ哲学と称されているものは、実のところインドに現存する諸学派を含んでいる。
かくしてこれまで様々な解釈があり、そして私の考えでは、それらは二元論、ドヴアイタ、で始まり、非二元論、アドヴアイタ、で終わるまで、漸次前進してきた。

〈途中省略〉

すべてのヴエーダーンタ学徒は三つの点に同意する。彼らは神、啓示されたもの(天啓)としてのヴエーダおよび(万有)循環を信じる。
われわれはすでにヴエーダを考察した。循環についての信念は以下の通りである。−宇宙中のすべての物質は、「アーカーシャ」と呼ばれるある
原初の物質の結果であり、またすべての力は、重力、引力、斥力あるいは活力のいかんを問わず、「プラーナ」と呼ばれるある原初の力の結果である。
プラーナがアーカーシャに作用して、宇宙を創造または放射していく。一循環の初め、アーカーシャは不動にして非顕現である。
それからプラーナが作用しはじめ、ますますその度合いを増し、アーカーシャからますます粗大な形態−植物、動物、人間、星、等々−を創造していく。
数えきれない時間の後、この進化はやみ、そして退化が始まり、あらゆるものがますます微細な形態を通じて原初のアーカーシャとプルシャへと還元していき、その完了に続いて新しい循環が起こる。
さて、アーカーシャとプラーナを超越した何かがある。
共に、「マハト」 −宇宙精神−と呼ばれる第三のものへと還元されうるのだ。
この宇宙精神は、アーカーシャとプラーナを創造するのではなく、それ自身を両者へと変化させるのである。  



 さて、精神、霊魂および神についての信念を取り上げてみよう。一般に認められたサーンキヤ心理学によれば、

・知覚においては− 例えば視覚の場合−まず初めに視覚の道具、すなわち目がある。

・道具−目−の背後には視覚の器官、「インドウリヤ」 − 視神経およびその中枢−があり、これは外部器官(※外部器官とは精妙身体の脳と言うこと)ではないが、しかしそれなしには目は見ることはないであろう。

がさらに多くが知覚に必要とされる。

・精神、「マナス」、が起こって、器官に付着しなければならない。
(※脳の器官にその情報を感覚へと変換する精妙感情体が組み込まれているので脳の情報が感覚に翻訳され次の知覚主体へと伝達される)

・さらにこれに加えて、感覚が知性、「ブディ」−精神の限定的、反応的状態−へと伝えられなければならない。
(※そのようにしてこの感覚は更に「ブディ」へと届き、その限定的、反応的な「ブディー」から、今度はさらに反応がなされるのである、ここでは脳の情報は各精妙身体の機能を経て反応を起こす主体である「ブディ」に届くと言うことを詳しく語っている、ここでは「記憶主体の働き」のことを「ブディ」と言っていると思われる)

・反応がブディから来るとき、それと共に外界およびエゴイズム(自己中心性)がばっと現われる
(※「ブディ」という記憶の働きをするものが「私と言う観念」に覆われているので「ブディ」から外界、及びエゴイズムが発生していると言うことか)
・かくしてここに意志が起こる。
(※この意志とは「ブディ」が起こしている限定的、反応の錯覚としての自由意志のことで、これが「ブディ」にとっては自分の自由意志と解釈されたのである)


が、あらゆるものは完全ではない。ちょうどあらゆる絵が、連続した光のインパルスで構成されているので、一個の全体を成すためには何か静止したものの上で結合されなければならないように、
(※ここでは映画や映像の投影のように、なにも書かれていないスクリーンが措定されている)


精神内のすべての観念は肉体と精神に対して相対的に静止的な何か − つまり、霊魂(ソウル)あるいはプルシャあるいはアートマンと呼ばれるもの − の上に集められ、投影されなければならない。



 サーンキヤ哲学によれば、ブディ(知性)と呼ばれる精神の反応的状態は、マハト(宇宙精神) の結果、変化または一定の顕現である。マハトは振動する思考へと変化していき、またそれは一部分で諸器官へと変化し、他の部分で物質の微粒子へと変化する。

これらすべてのものの組合せから、この宇宙の全部が生み出される。さらにマハトさえもの奥に、サーンキヤは「アヴィヤクタ」すなわち非顕現と呼ばれる一定の状態 − そこでは精神の顕現すらなく、諸々の原因のみが存在する − を想像する。それはまた「プラクリティ」とも呼ばれる。


このプラクリティの奥に、また永遠にそれから別個に、プルシャ ー 属性がなく、遍在的なサーンキヤ派の霊魂 − がある。プルシャは行為者ではなく、目撃者である。


水晶の実例が、プルシャを説明するために用いられる。後者は何の色もない水晶のようであると言われるが、その訳は、その前に異なった色が置かれると、それらの色によって染められるように見えるが、しかし実際
にはそうではないからである。
ヴューダーンタ学徒は、霊魂と自然についてのサーンキヤの観念を退ける。彼らは、両者の間には乗り越えられるべき巨大な深淵があると主張する。

一方でサーンキヤ体系は自然に至り、それから直ちに他の側へと飛躍し、自然から完全に分離した霊魂に至らなければならない。サーンキヤのいわゆるこれらの異なった色は、本来無色なその霊魂にいかにして作用しうるのか? そのようにヴエーダーンタ学徒は、まず初めから、この霊魂とこの自然とは一つだと断言する。
二元論的ヴエーダーンタ学徒でさえ、アートマンあるいは神はこの宇宙の直接因であるだけでなく、また質量因でもあると主張する。
が、彼らはただ、実に多くの言葉でそう言う。彼らは実はそう言うつもりではない。なぜなら彼らは、次のようにしてこの結論を免れようと試みるからである。
彼らは、この宇宙には三つの存在 − 神、霊、魂、自然−があると言う。自然と霊魂は、いわば神の体であり、そしてこの意味で、神と全宇宙は一つだと言いうるであろう。
が、この自然とこれらすべての様々な霊魂は、お互いに永遠に別個のままである。一つの循環の初めにのみ、それらは顕現してくる。そして循環が終わるとき、それらは微細になり、そして微細な状態に留まる。

アドヴァイタ・ヴエーダーンタ学徒 − 不二一元論派−は、この霊魂の観念を退け、そしてウパニシャッドのほぼ全範囲を味方にして、彼らの哲学を完全にそれらの上に築く。ウパニシャッドに含まれたすべての本は、
一つの主題、課題 − 以下のテーマを証明するという ー を持つ。

「ちょうど一塊の粘土を知ることによってわれわれが宇宙におけるすべての粘土の知識を持つように、何が、それを知ることによって宇宙におけるあらゆるものをわれわれが知るところのものなのだろう?」。

不二一元論派の観念は、全宇宙を一つ−実際にはこの宇宙の全部であるところのもの − へと帰納することである。
そして彼らは、この全宇宙は一つであり、一つの 「存在者」がこれらすべ
ての種々様々な形態に顕現していると主張する。

彼らはサーンキヤが自然と呼ぶところのものは存在するが、しかしその自然は神だと認める。このすべて ー 宇宙、人間、霊魂および存在するあらゆるもの ー へと変わったのは、この 「存在者」、「サット」、なのだ。


精神とマハトは、その一なるサットの顕現にすぎない。しかしそこで、これでは汎神論になってしまうという困難が起こる。彼らが認めるように不変である (なぜなら絶対的であるものは不変だから)ところのそのサットが、いかにして変わりうるもの、腐敗しうるものへと変化するに至ったの
か? 

不二一元論者たちはここで、ヴィヴアルタ・ヴアーダ、見かけの顕現、と彼らが呼ぶとところの理論を持っている。

二元論者およびサーンキヤ派によれば、この宇宙の全部は原初の性
質の進化である。不二一元論者の何人かおよび二元論者の何人かによれば、この宇宙の全部は神から進化する。


そして本来の不二一元論者たち、すなわちシャンカラチヤリヤの信奉者たちによれば、全宇宙は神の見かけの進化である。

神はこの宇宙の質量因だが、しかし本当にではなく、単に見かけの上でである。用いられる名高い例証は縄と蛇のそれで、ここでは縄が蛇に見えたが、しかし実際にはそうではなかったというものである。縄は本当は蛇に変わらなかったのである。

たとえそうでも、それが存在するものとしてのこの全宇宙は、かの「存在」である。それは不変であり、われわれがその中に見るすべての変化は単に見かけだけである。

これらの変化は、デシャ、カーラおよびミニッタ(空間、時間および因果)によって、あるいはより高い心理学的一般化によれば、ナーマおよびルーパ(名と形)によって起こされる。

あるものが他のものから区別されるのは、名と形によってである。名と形のみが相違を引き起こす。実際には、それらはまったく同一である。再び、不二一元論者たちは言う、現象としての何かがあり、また本体(現象の根本をなす実体−訳注)としての何かがあるのではないと。縄は、見か
けの上でのみ蛇に変えられる。そして錯覚がやむとき、蛇は消え失せる。


人が無知に陥っているとき、
彼は現象を見て、神を見ない。
彼が神を見る時、
この宇宙は彼にとって完全に消え去る。



無知すなわちいわゆる「マーヤー」が、そのいっさいの現象 − この顕現した宇宙と見なされている絶対、不変なるものの原因である。このマーヤーは絶対無でも、非存在でもない。それは、存在にも非存在にもあらずと定義される。それは存在ではない。


なぜならそれは絶対、不変なるもの、についてのみ言われうるからであり、そしてこの意味でマーヤーは非存在である。再び、それは非存在であるとは言えない。なぜなら、もしそうなら、それは現象を生じることができないだろうから。そのように、それはそのどちらでもない何かである。そし
てヴューダーンタ哲学では、それはアニルヴアチヤニヤ、言い表わしえぬものと呼ばれる。

マーヤーはかくして、この宇宙の其の原因である。マーヤーは、名と形を、ブラフマン、神、が材料を与えるところのものに与える。そして後者がこのすべてへと変容されたように思われる。



不二一元論者は、そこで、個的霊魂を入れる余地を持たない。

彼らは言う、
個人の霊魂はマーヤーによって作り出されるのだ

と。実際にはそれらは存在できない。


もし唯一の存在が遍満しているなら、いかにして私が一つ、あなたが一つ、等々でありえようか? 

われわれの全員が一つなのであり、

そして悪の原因は二元性の知覚である。


私が自分はこの宇宙から別個だと感じはじめるやいなや、まず恐怖が起こり、それから不幸が生まれる。

「人が他人の声を聞き、他人を見るなら、それは小さい。人が他人を見ず、他人の声を開かないなら、それこそはもっとも偉大であり、それは神である。

その最高の偉大さのうちに全き幸福がある。小事にはいかなる幸福もない」。


 不二一元論哲学によれば、こうした事物の区別、これらの現象は、いわば、一時的に人間の真の本性を隠しているのである。が、後者は実際には少しも変わらなかったのである。

もっとも下等な虫の中に、ならびに最高の人間存在の中に、同じ神的性質が現在している。虫の形はその中で神性がマーヤーによってより多く覆われてきた、より低級なかたちであるに対して人間存在は、その中で神性がもっともわずかしか被われずにきた最高の形なのである。

あらゆるものの奥に同じ神性が存在しており、そしてこれから道徳の基礎が起こる。

他人を傷つけることなかれ。あらゆる人をあなた自身として愛せよ。
なぜなら、全宇宙は一体だから。
他人を傷つけることによって、私は自分自身を傷つけている。
他人を愛することによって、私は自分自身を愛している。

ここからまた、一語 − 自己放棄Iで要約されてきた、不二一元論の道徳
原理が出来する。


不二一元論者は言う、このちっぽけな個人化された自我がすべての不幸の原因だと。
私を他のすべてのものから区別させるこの個人化された自我が、憎悪、羨望、不幸、苦闘およびその他すべての悪をもたらすのだ。

そしてこの観念が除かれたとき、すべての苦闘がやみ、いっさいの不幸が消え失せるであろう。ゆえに、これが放棄されるべきなのだ。

われわれは常に覚悟していなければならない、

もっとも低い存在者のためにわが命を放棄する程度まで、
ある人が彼の命を小さな昆虫のために捨てるほどの覚悟ができたとき、
彼は不二一元論者が到達することを欲している完成に至ったのだ。


そして彼がそのように覚悟ができたその瞬間に、無知のベールが彼から落ち去り、彼は自分の本性を感得するだろう。

この生においてすら、彼は自分がこの宇宙と一体であることを感得することだろう。

しばらくの間、いわばこの現象界の全部が彼にとっては消え失せ、そして彼は自分の何たるかを悟るであろう。

が、この肉体のカルマが残るかぎり、彼は生きなければならないだろう。

ベールは消え失せたが、けれども肉体がしばらくの間留まっているこの状態が、ヴューダーンタ学徒が 「ジーヴアンムクティ」、生きながらの自由(生前解脱) と呼ぶところのものである。

もしある人がしばらくの間、蜃気楼によって惑わされ、そしてある日蜃気楼が消え去るなら ー もしそれが翌日あるいは未来のある時再び戻ってきても、彼は惑わされないだろう。

蜃気楼がまず消散する以前には、その人は真実在と惑わしとを区別できなかった。が、それがいったん消散したなら、彼が働かすべき器官や目を備えているかぎり、彼はその正体を見て、もはや惑わされることはないであろう。

実在界と蜃気楼とのその微妙な区別を彼が把握した以上、蜃気楼は彼をもはや惑わすことはできない。

そのように、ヴエーダーンタ学徒が
彼自身の本性を悟ったとき、
全世界は彼にとって消滅したのである。



それは再び戻ってくるであろうが、しかしもはや以前と同じ不幸の世界ではない。

不幸の獄舎が「サット・チット・アーナンダ ー 絶対存在・絶対知識・絶対至福」へと変じたのであり、そしてこれを達成することが不二一元論哲学の目標なのである。



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