真実の言葉には創造の力がある
シャンカラは教えている
「私は他と分離している個人である」、「私は肉体である」、「私は心である」云々という観念は
現在のパーソナリティーが「各身体及び身体の脳の記憶とその感情と思考と意識というものであるにすぎない心」を
自分の肉体であり、自分の身体であり、自分の思考や感情だと、自分の心なんだと思い込んでいるに過ぎない
それは間違った観念にすぎない、と
それは現在のパーソナリティーが真我からの魂(松果体に接点)から派生して脳下垂体や視床下部などの脳内に縛られて
この脳内での意識や思考や感情や記憶を、自分のものだと錯覚して意識し、認識し、知覚してしまったからに他ならない。
自分が認識し、知覚しているところの、「脳である認識と知覚」に過ぎない心を、それを自分の思考と感情だと「認識し
知覚」してしまったのだと
「現在のパーソナリティーである自分」ではない脳内の思考と感情と記憶を、その記憶の反応にすぎない思考と感情を
自分だと、自分のものだと錯覚している「観念であるもの」、それが「私は分離している肉体だ」「私は心だ」の観念である。
その「私は他と分離している個人である」、「私は肉体である」、「私は心である」は現在のパーソナリティーの抱いてしまった
間違っている観念なのである。その「私は肉体である、私は心である、これは私の心である」は間違っている観念である。
それに反して
「私は肉体ではない」「私は心ではない」「私はすべてに存在している」は同じく現在のパーソナリティーにとっては
観念ではあっても、その観念は正しく、真実に裏付けられている。
片方の「私は肉体である」とは虚偽そのものである。それは真実ではない。
であるからもう一方の「私は肉体ではない」「私は心ではない」「私はすべてに存在している」との、その観念は
現在のパーソナリティーというものが、魂の内奥の真我から派生した魂からの意識であり
その魂とは、魂の内奥の真の私である真我自身であるからして、それは全く正しい。
今のところは、現在のパーソナリティーの状態とは意識が深化しておらず、魂の内奥へと意識化していなくても
それらの観念、現在のパーソナリティーが意識しているそれらの言葉や観念とは、真実そのものであり
観念であっても真実なのである。
一方の「私は肉体であり、心であり、諸体である」は嘘の観念であるに反して
もう一方の「私は肉体ではない」「私は心ではない」「私は全てに存在している」は正確で正しい観念である
けれども、それは同じく観念であることは、否めない
それをありのままの自分として、シャンカラのように観念ではなくて実際の高次の真我の意識そのものとして
私の偽らざる実感覚として「私は肉体ではない」「私は心ではない」「私は全てに存在している」と述べることはこの
久保栄治においては観念としてしかできない。
この現在のパーソナリティーが魂の内奥との繋がりが細くて確立されていないからである
そう言うことであるからして現段階では、この久保栄治にとっては両方とも同じ観念にすぎないのではあるけれども
「私は肉体であり心である」は観念としてしか、エレメンタルとしてのみ機能し、仮象するに過ぎないのに反して
「私は全てに存在している」「私は肉体ではなく心ではない」との観念は、真実であるが故に、
その観念は実在の力を帯び始め、内奥の真我の意識からの働き掛けに即応しているのである
それ故に、その真実の言葉と、その観念はエレメンタルの次元を突破して真実の真の私の意識の導体になる。
その言葉は真実であるから創造の力を持つのである。
まさにヨハネ伝にあるように
「初めに言葉ありき、言葉は神なりき、よろずのものこれによりて成り、なりたるものは一つとして
これに因らざるはなし」とあるように
真実の観念や言葉は、言葉や観念であっても高次元界の真実の言葉の力を持って実現化していくのである。
シャンカラの言葉より
統覚機能が純粋精神の映像によって遍満されるとき
統覚機能に(私という観念)意識が生じ
音声などの外界の対象が顕れる
この為に人々は惑わされるのである
「私という観念」が純粋精神であるかのように顕れ、純粋精神によって存在している
私とは自分自身の統覚機能のなかの動きの目撃者であるように、他人の統覚機能の動きの目撃者でもある
統覚機能である認識対象は統覚機能が存在しているときにのみ存在している
逆に統覚機能が存在していないときには認識対象も存在していない
真実の認識主体であるアートマンは、常に真の認識主体であるから、この認識主体には対象はなく二元は存在していない
(※見る者と見られるものの分離はないということ)
従って、統覚機能とは対象を決定することを目的としている
アートマンは自己の本性である光によって一切の対象を知覚している
けれどもその統覚機能はつねに照らしているので認識主体と言われている
アートマンは真実の見者であるからこそ対象となることはない。
本当の認識主体とは対象として身分自身をみたりはしない
私は苦しんでいると「考える」為に人は苦しむのであって
苦しんでいる「統覚機能」を見てるが故に「苦しむ」のではない
四肢などの集合体(身体)の中にあって、この苦を見ているものは苦しむことはない
認識対象の私とは私ではない。
純粋意識である私が主体であるから
私・アートマンは一切の観念(私という観念)の目撃者である
私は「私という対象」ではない
私・アートマンは一切であり、全体であり、それである
それを見ている眼は肉眼の眼によって損なわれることはない。