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沈黙は続いている


聖賢の方々はいわれている。


「沈黙」は続いている、「沈黙」はここにある。

私たちが沈黙しようが、沈黙しまいが「沈黙」はここにあって続いている。

私たちが沈黙していようが、沈黙していまいが、私たちの状態にかかわらず「沈黙」は私たちの中で進行している。

私達がいかなる状態であっても「沈黙」は私達を支え続けているから。



「沈黙」は、私達のする行為や、しない行為に係わらず、続いている。ただそれに気がついていないだけだ。

「沈黙」は、私たちの状態や、成果や、努力や、段階にかかわらず、そこにある。ただ気がついていないだけだ。

「沈黙」は、私達の思考や、マインドや、意識にかかわらず絶えることなく続いている。気がつかないだけだ。

「沈黙」は、瞑想や変性意識状態にもかかわらず続いている。気がつかないだけだ。

「沈黙」は、感覚や、知覚や、経験や、体験などという私たちにかかわらずに続いている。気がついていないだけだ。

「沈黙」は、出来事や、起こっている事に、良いことや、悪いことにも係わらず続いている。気がつかないだけだ。

「沈黙」は、私達が落ち込んでいても、動揺しても、絶望しても、恐怖で打ち震えていても、どうしようがなくても

づっと変わらなく続いている。私達がこの「沈黙」に気がつかないだけなのだ。




「沈黙」は、肉体の状態や、外部に起こっていることなどによっては妨げられない。

「沈黙」は、自分の願望や、その願望の成就、そうでないこと等によって左右されることなく続いている。

「沈黙」は、欲望や、衝動や、激情や、陶酔や、感動の中でも、それに左右されずに続いている。

「沈黙」は、視覚や、聴覚や、触覚や、味覚等の感覚や知覚に左右されず、係わらず続いている。

「沈黙」は、やってきて起こっている思考や、感情や、観念に係わらずここにある。

「沈黙」は、私という個人や、人格に、そしてその運命や境遇というような起こっている出来事にも係わらず続いている。

「沈黙」は、私という観念や、「私とあなたという区別」や分類、分離の中でも左右されずにそこに在る。

「沈黙」は、わたしにかかわらず続いている。私や貴方に拘わらずに続いている。

「沈黙」は、内部と外部、主体と客体、観察者と観察されるものというような分離二元に左右されずに続いている。

「沈黙」は、高次の自己と低次の自己という主体性の相違にもかかわらず、それに影響を受けることなく続いている。

「沈黙」は、知覚と認識の中核の中に於いても、それにかかわらず続いている、それは私という実存を超えて続いている。

「沈黙」は、あらゆる体験にも左右されずに、またあらゆるマインドや、経験に左右されず続いている。

「沈黙」は、日中の覚醒時でも、夢の夢見時でも、熟睡でも、それらに影響を受けることなく続いている。

「沈黙」は、生老病死にかかわらずに、誰彼の区別なく続いている。

「沈黙」は、生と死に邪魔されることなく続いている。


そしてこの「沈黙」のなかに


あの名付けられない“沈黙”が、内側の内奥から姿をあらわしているといわれている。