ヴィヴェーカナンダの言葉
(日本ヴェーダーンタ協会「ギヤーナ・ヨーガ」
「魂の自由」より一部転載させてもらいました)
bT魂の自由
すでにご紹介したカタ・ウパニシャッドは、これか
らとり上げようとするチャハーンドギャよりはずっと
のちに書かれたものです。言葉も、より近代的ですし、
思考ももっと系統だっています。古いウパニシャッド
では、ヴェーダの賛歌の部分のそれのように言葉が非
常に古めかしく、本質的な教理をよみとるためにはし
ばしば、大量の不必要な部分を我慢してよみ通さなけ
ればなりません。すでにおはなしした、ヴェーダの第
二部を形成する儀式についての文献は、この古いウパ
ニシャッドにも多大の影響をのこしていて、そのなか
ば以上はなお、儀式の記述です。しかしながら、非常
に古いウパニシャッドを研究することは一つの大きな
利益をもたらしまします。いわば、霊的思想の歴史的
発展のあとをたどることができるのです。比較的新し
いウパニシャッドにあっては、たとえば、おそらくウ
パニシャッドの最後のものと見てよいバガヴァッド・
ギーターにおけるように、霊的思想があつめられ、一
カ所にまとめられています。そこにはこれらの儀式的
観念のかげはみとめられないのです。ギーターは、も
ろもろのウパニシャッドからとりあつめられた霊的真
理の美しい花でつくられた、花束のようなものです。
しかしギーターの中では、その霊的思想の始原を研
究することはできません。それらのみなもとまでさか
のぼって行くことはできません。それをするには、多
くの人が指摘しているように、ヴェーダを研究しなけ
ればならないのです。
これらの書物(ヴェーダ)を神聖なものとみなす偉
大な思想が、世界中のどんな書物よりも完全にこれら
を毀損からまもることになりました。それらの書物の
中には、最高のかたちであらわれた思想と、最低の思
想とが同時に保存されています。本質的なものとそう
でないもの、もっとも心をたかめるおしえともっとも
単純な枝葉のこととが同時に保存されています。何び
ともあえてそれらに手をふれることをしなかったから
です。注釈者たちがあらわれて、それらをたいらにし、
古いものの中からすばらしい新しい観念をとり出そう
とこころみました。彼らは、もっとも平凡な宣言の中
にも霊的な思想を見いだそうとこころみました。しか
し原典は、そのままで保存されました。そういうわけ
で、それらはもっともすばらしい歴史の研究資料なの
です。あらゆる宗教の聖典の場合、後代、霊性の発達
に適合するように変革がおこなわれているということ
をわれわれは知っています。一語がここでかえられ、
他の語があそこにいれられた、などというふうにです。
このことはおそらく、ヴェーダの聖典ではなされませ
んでした。もしなされたとしても、ほとんど目につか
ない程度であったと思われます。それで、われわれは
ここに大きな便宜を得ているのです。思想の生まれた
ときの意味を研究し、それらがどのように発展したか、
物質的な観念から出発して、ヴェーダーンタにおいて
最高峰に達するまで、しだいしだいにより精妙な霊的
観念がどのような形で展開してきたかを、あきらかに
することができるのです。古代の風俗習慣のあるもの
の描写もそこには見られます。しかしそれらは、ウパ
二シャッドにはあまり多くは見あたりません。用いら
れている言葉は、独特の、簡潔な、暗記することをた
すけるためのような形のものです。
これらの書物の筆者たちはこの文章を、単に、すで
に誰でもがよく知っていることがあきらかである特定
の事実の心おぼえとして、さっと書きとめたものでし
た。彼らがはなしている物語は、ききての一人一人に
とってすでになじみふかいものであったことがうかが
われます。こういうわけで、いまは一つの大きな困難
が生まれます。伝説はほとんどわすれさられてしまい、
のこっているわずかの部分はいちじるしく誇張されて
いるので、われわれはこれらの物語の真の意味をほと
んど知ることができません。多くの新しい解釈がそこ
につけくわえられていて、たまたまプゥラーナのなか
にそれらを見いだすと、それらはすでに叙情詩になっ
てしまっているのです。西洋民族の政治的進歩の過程
を見ると、彼らは絶対的な支配にはたえることができ
ず、一個の人間が彼らを支配しようとするときにはつ
ねにこれに抵抗し、徐々により高い民主思想にむかっ
て、より高い物質的自由の思想にむかってすすみつつ
ある、という顕著な事実を発見するのですが、インド
の形而上学では、霊的生活の発展の過程にまったく同
一の現象を見ることができます。まず多くの神々が宇
宙の唯一神にところをゆずり、そしてウパニシャッド
の中では、この唯一神に対してさえ反逆がなされてい
ます。宇宙の多くの支配者たちが自分たちの運命を支
配している、という思想に我慢ができなかったばかり
でなく、一個の人格がこの宇宙を支配する、という観
念にもたえられなかったのです。これはわれわれの心
をうつ第一の事実です。この思想はしだいしだいに発
展して、ついにそのクライマックスに達します。ほと
んどすべてのウパニシャッドの中で、そのクライマッ
クスが最後の部分に出てくるのが見いだされます。つ
まり、この宇宙の唯一神が玉座からおろされるので
す。神の人格性はきえ、超人格性がやってきます。神
はもう人格ではありません。どれほどりっぱな、いか
めしいものとしてまつり上げられるにせよ、それはも
はや、この宇宙を支配する人間的な存在ではありませ
ん。彼は、全宇宙に内在し、いっさいのものとして具
現している、一個の原理となったのです。人格神から
超人格的存在にうつりながら、人間だけは人格として
のこしておく、というのでは不合理でしょう。そこで
人格的な人間は破壊され、原理としての人間がつくり
あげられます。人格は現象にすぎません。原理がその
背後にあるのです。こうして、人格の破壊と原理への
接近とが両がわから同時におこなわれるのが見られま
す。人格神は超人格的存在にちかづき、人格的な人間
は超人格的な人間に近づくのです。それから、超人格
神と超人格的人間という、前進しつつある二本の線が
徐々に近づいて一点に会する、という、つぎの段階が
きます。ウパニシャッドは、これら二つの線がついに
ひとつになるまでに通過すべきいくつかの段階を表現
しており、そしてどのウパニシャッドにおいてもその
最後の言葉は、「汝はそれなり」であります。あるも
のは唯一の、永遠に至福にみちた原理、そしてその一
者が、この多様な世界としてみずからを表現しつつあ
るのです。
それから哲学者たちがやってきました。ウパニ
シャッドの仕事はここでおわったもののようです。つ
ぎの仕事は、この哲学者たちによってとり上げられま
した。骨ぐみは、ウパニシャッドによって彼らにあた
えられました。こまかいところを補うのが彼らの
仕事でした。当然、さまざまの疑問が生まれるでしょ
う。唯一の超人格的原理があってそれがみずからをす
べてのこれらの多様なかたちの中にあらわしている、
というのは論議の余地のないこととしても、この一者
がどのようにして多数となるのか。それは、悪の原因
は何であるか、などという素朴なかたちで人間の心に
生まれるおなじ古い疑問の、かたちをかえたものです。
なぜこの世に悪が存在するのか。その原因は何か。し
かし同一の質問がいまは洗練され、要約されたかたち
になりました。それはもはや、なぜわれわれは不幸な
のであるか、というような感覚の立場からはたずねら
れず、哲学の立場からたずねられています。どのよう
にしてこの唯一原理が多様になるのか。すでに見たよ
うにその答えは、インドが生みだした最上の答えは、
マーヤーの説です。それは、唯一原理はほんとうは多
となったのではない。ほんとうは自己の真の性質を少
しもうしなったのではない、と説くものです。多様性
は現象にすぎません。
人とはただ人格とあらわれているだけ、
ほんとうは超人格的実在です。
同じく神はただ人格とあらわれているだけ、
ほんとうは超人格的実在なのです。
この解答の中にもさまざまの段階があって、哲学者
たちの意見はさまざまでした。インドのすべての哲学
者がこのマーヤーの説をみとめたというわけではあり
ません。おそらくその大部分はこれをみとめませんで
した。まず、ごく粗野なかたちの二元論を主張する二
元論者たちがいます。彼らは質問をするということを
ゆるさず、あたまからそれをおさえつけてしまいます。
彼らは言いました、「おまえたちはそのような質問を
する権利をもってはいない。おまえたちは説明をもと
める権利を持ってはいない。それは神の意志である。
われわれはしずかにそれに服従しなければならないの
だ。人間の魂に自由はないのだ。われわれが何をなし、
何を持ち、何を楽しみ、そして何をくるしむであろう
か、それらいっさいのことはすでにきまっているのだ。
そして不幸がきたときには、それをじっとたえしのぶ
のがわれわれの義務である。そうしなければいっそう
の罰をうけるであろう。どうしてそういうことがわか
るのか。だってヴェーダにそう書いてある」と。この
ように彼らは、聖典の文句とそれらの意味をおしつけ
ようとするのです。
ここにまた、マーヤー説をみとめることはしないが
中間の道に立つ、という別の人たちがいます。彼ら
は、この創造の全体がいわば神の身体を形成している
のだ、と言います。神は、すべての魂たちと大自然全
体との魂です。個別の魂たちの場合には、悪行のため
に収縮がおこります。ある人がわるいことをすると彼
の魂は収縮しはじめ、彼の力は減少し、彼がよいこと
をしてそれがふたたび膨張するまで、それはへりつづ
けるのです。ある一つの観念がインドのあらゆる体系
の中にふくまれていると思われ、また私が思うには、
彼らが知る知らぬにかかわらず、世界のあらゆる体系
の中にふくまれています。すなわち私が人間の神性と
よんでいるものです。それが神話の中に表現されてい
る場合もありましょうし比喩の中に、あるいは哲学の
中に表現されている場合もありましょうが、とにかく
この世界中に、思想体系であり真の宗教であって、人
間の魂を〜たとえそれが何であれ、それと神との関
係がどのようなものであれ〜本質的には純粋で完全
なものである、と考えていないものはないでしょう。
人間の魂の真の性質は、至福であり力であって、よわ
さや不幸ではないのです。どういうわけか、とにかく
不幸というものがやってきました。未熟な思想は、ど
うしてこの不幸がやってきたのかを説明するために、
それを人格化された悪、悪魔あるいはアリマンと呼ぶ
でしょう。他の二部の思想は、神と悪魔とをひとつに
して、何の理由もないのにある人びとを不幸にし、他
の人びとを幸福にするような存在を、つくります。ま
たその他のもっと思慮ぶかい体系は、マーヤーおよび
それに類する学説をとりいれます。しかしながら、一
つの事実がつねにはっきりと目だっています。そして
われわれがとり上げなければならないのはその事実で
す。結局、これらの哲学的な思想や体系は、心の体操
にすぎません、知性の訓練にすぎません。私にはっき
りと見える一つの観念、そしてあらゆる国、あらゆる
宗教の中に迷信のかたまりをぬきんでてあらわれてい
る一つの偉大な思想は、人間は神聖であるという、神
性がわれらの本性であるという、一個の光り輝く観念
です。
それ以外にやってくるいっさいのものは、ヴェー
ダーンタがそうよんでいるように、単なる上おきです。
何かが上にかさねておかれたのです。しかし、その神
聖な本性は決して死にはしません。もっともきよらか
な人びとの中と同様に、もっとも堕落した人びとの中
にもそれはつねに存在するのです。それはよびだされ
なければなりません。するとあらわれるはずです。わ
れわれはもとめなければなりません。そうすればそれ
はみずからをあらわすでしょう。むかしの人は、ひう
ち石とかわいた木の中に火がやどっていることを知っ
ていました。しかしそれをよびだすためには摩擦が必
要でした。それとおなじように、この自由と純潔とい
う火は、あらゆる魂の本性です。才能は本性ではあり
ません。才能は獲得されるものですから、したがって
うしなわれ得るものです。魂は自由と一つのものです。
また魂は、存在と一つのものです。そして魂は、知識
と一つのものです。サット・チット・アナンダ、です
なわち絶対の実在・知識・至福が魂の生まれついての
本性です。われわれが目撃するところのすべての現象
はそれのあらわれであって、あるいは微かに、ある
いは輝かしく、それ自身をあらわしているのです。死
さえも、その真の存在の、一つのあらわれにすぎませ
ん。誕生と死、生命と衰微、退化と再生、これらのす
べては、そのひとつなるもののあらわれです。それゆ
え、知識はたとえそれがどのようにあらわれていよう
とも、無知とあらわれていようとも博識とあらわれて
いようとも、同一のチット、すなわち知識の精髄、の
あらわれ以外の何ものでもありません、ちがいは程度
にあるのであって質にあるのではありません。われわ
れの足もとをはう最下級の虫と、この世界が生みだ
す最高の天才との間の、知識における相違は、単に程
度のそれであって質のちがいではありません。ヴェー
ダーンタの思想家は、この世の快楽は、たとえそれが
もっとも堕落したよろこびであろうとも、やはりその
唯一の神の至福、魂の本質のあらわれ以外の何もので
もない、と大胆に断言しているのです。
この思想は、ヴェーダーンタのもっともいちじるし
い特質である思われます。そしてすでに申しあげたよ
うに、あらゆる宗教がそれを主張している、と私には
思われます。このことを主張しない宗教を、私はまだ
見たことがありません。それは、すべての宗教の中に
生きている一つの普遍的な観念です。バイブルを例に
とってみましょう。みなさんはそこに、最初の人間ア
ダムはきよらかであった、彼のきよらかさはのちに彼
のわるいおこないによって抹殺されたのだ、という比
喩的な宣言を見いだされるでしょう。この比喩によっ
て、彼らが原始の人間は完全であったと考えていた、
ということは明白です。われわれが見るところの不純
性、われわれが感じるところのよわさは、この本性の
上におかれた別の何ものかにすぎないのです。しかも、
このあとにつづくキリスト教の歴史は、彼らがまた、
その古い状態をふたたび獲得することの可能性を、い
や、その確実性を信じていた、ということを示してい
ます。これが旧約、新約をふくむ、聖書全体の歴史で
す。回教徒にあっても同様です。彼らもやはりアダム
とアダムのきよらかさを信じ、そしてうしなわれた状
態を回復する道がモハメッドによってひらかれた、と
信じました。
仏教徒にあっても同様です。彼らは、こ
の相対界を超越するニルヴァーナという状態を信じま
した。それはヴェーダーンティストのいうブラフマン
とまったくおなじものであり、仏教徒の全体系は、あ
のうしなわれたニルヴァーナの状態をとりもどすとい
う観念を基礎としているのです。あらゆる体系の中
に、人ははじめから自分の所有物でないものは、手に
入れることは出来ない。という教理が存在するのをわ
れわれは知っています。あなたは、この宇宙間の何者
に負うところがあるわけでもありません。ある偉大な
ヴェーダーンタ哲学者が自分の著書の一つにつけた、
「我ら自身の王国の獲得」という標題の中でもっとも
詩的に表現されているように、あなたは自分の生得の
権利を主張するのです。「王国」はわれわれのものです。
われわれはそれをうしなったのですから、とりもどさ
なければならないのです。しかしながら、
マーヤー論者は、この王国の喪失は幻覚であったのだ、
と言っています。
あなたはかつてそれをうしなったことはない、
というのです。この点がたった一つのちがいです。
あらゆる体系が、われわれはかつて王国を持ってい
た、そしてそれをうしなったのである、というところ
までは一致するのですが、それをとりもどす方法につ
いては、さまざまの進言をしています。あるものは、
その王国をとりもどすためにはある儀式をおこない、
ある金額を神にささげ、ある種の食物をとり、特定の
様式の生活をしなければならないと言います。またあ
るものは、あなたが泣いて、ある超自然的存在の前にひ
れふし、そのゆるしをこえばその王国をとりもどすで
あろう、と言います。さらにまたあるものは、あなた
が全心をこめてあるそのような存在を愛するなら、あ
なたはその王国をとりもどすだろう、と言います。こ
れらさまざまの助言はみな、ウパニシャッドの中にあ
ります。私が話をすすめて行くうちにみなさんはそれ
をお知りになるでしょう。しかしながら最後の、そし
てもっとも偉大な助言は、みなさんはすこしも泣く必
要などはない、というものです。みなさんはこれらす
ベての儀式をおこなう必要もないし、どうして自分の
王国をとりもどそうかなどと心配する必要もまったく
ないのです、なぜなら、
みなさんはかってそれをうしなったことなどはないの
ですから。
なんでうしなったことのないものをさがしに行く必要
などがありましょう。
あなたはすでに浄いのです。あなたはすでに自
由なのです。もしあなたが自分は自由である、と思う
なら、あなたはこの瞬間に自由です。もしあなたが自
分は束縛されているとおもうなら、あなたは束縛される
でしょう。
これは非常に大胆な発言です。このコース
のはじめに申しあげたように、私は非常に大胆に話を
しなければならないのです。それはみなさんを恐怖さ
せるかもしれません。しかしみなさんが熟考し、かつ
それをご自分の生活の中に実現なさるなら、私の言う
のがほんとうである、ということをお知りになるはず
です。なぜなら、もし自由があなたの本性ではないのな
ら、どんな方法を以てしても、あなたは自由になれ
るはずはありません。もし、あなたが自由であったが
何かの理由でその自由をうしなった。とおっしゃるな
ら、それはもう、はじめから自由ではなかった、とい
うことになります。もしあなたが自由であられたのな
ら、誰がそれをうしなわせることができましょう。自
立している者を従属的にすることは決してできないの
です。もしそれがほんとうに従属的であるなら、その
ものの独立性ははじめから幻想だったのです。
ではあなたは、この二つの見方のうちのどれをとり
ますか。もしあなたが、魂はもともと純粋で自由であっ
た、とおっしゃるなら、当然の結果として、この宇宙
間にそれをしばったり限定したりすることのできるも
のはなかった、ということになります。しかし、もし
この自然界に魂をしぼることのできる何ものかがあっ
たとすれば、当然の結論として魂は自由ではなかった、
ということになります、したがって、魂は自由であっ
た、というあなたの宣言は思いちがいなのです。それ
ゆえ、もし自由を獲得することがわれわれにとって可
能であるなら、魂は本来自由である、という結論をさ
けることはできません。それ以外にはありようがない
のです。自由は外界のいっさいのものからの独立を意
味します。またそのことは、それ自身以外の何ものも、
原因としてそれに働きかけることはできない、という
ことを意味します。魂は原因のないものです。そして
このことから、われわれが持つあらゆる偉大な思想は
生まれてくるのです。魂は添性自由である、というこ
とを、言い換えれば魂は外部の何ものからも作用され
ることはない、ということをみとめるのでなければ
魂の不滅を確言することはできません。死はある外部
の原因によってもたらされる結果なのですから。私は
毒薬を飲む、すると私は死に、私の肉体は毒薬という
外部の品物によって左右されるのだ、ということを示
します。しかし、魂が自由であるということが真実
なら、当然の結果として何ものもそれに左右すること
は出来ず、それは決して死ぬことはありません。自由
、不死、至福、これら総ては、魂が因果の法則を
超えていることの上に、マーヤーを超越していることの
上に成り立っています。あなたはこの二つの中の
どちらをとりますか。第一のものを迷妄とするか、第
二のものを迷妄とするか〜当然私は、第二のもの
を迷妄としましょう。私のすべての感情と願望とに、
その方がずっとよく調和しますから。私は、自分が
本来自由であるということを完全に自覚しています。
したがって、この束縛がほんものであって私の自由
は迷妄である、などということを容認するつもりは
ありません。
この議論は、あらゆる掌の中で何らかのかたちで
おこなわれています。もっとも現代的な哲学の中にも、
おなじ議論がおこなわれているのをみなさんは見いだ
されるはずです。そこには二つのグループがあります。
その一つは、魂はない、魂という観念は、あなた方が
肉体とか頭脳とか呼ぶ結合体をもたらす、物質分子の
反復、移動から生まれた妄想である、自由という印象
は、これら微粒子の振動とうごきと、不断の移動の結
果である、と主張します。これとおなじ見解を侍って
それをつぎのような例によって説明した仏教の宗派も
ありました。すなわち、もしあなたがもえるたいまつ
をとって空中にすばやく円をえがけば、そこには光の
輪が見えるだろう。その輪はほんとうは存在しない。
なぜならたいまつは瞬間ごとにその場所をかえつつあ
るのだから。われわれも微粒子のかたまりにすぎない。
それが急速にうずをまくうちに永続的な魂であるとい
うまどわしを生むのだ、というわけです。もう一つの
グループは、物質は思いの急速な連続の中でまどわし
として出現するが、実際には存在しないのだ、と主張
します。このようにしてわれわれは、一方は魂がまど
わしであると主張し、他方は物質がまどわしであると
主張するのを見るのです。みなさんはどちらをとりま
すか。もちろん、われわれは魂をとって物質を否定し
ましょう。議論は双方にたようなものですが、ただ魂
を主張するがわの方が、論拠はややつよいのです。そ
れは、物質とは何であるかということを見た人はいま
だかつてないからです。われわれは、われわれ自身を
感じる事ができるだけです。私は、自分のそとにあ
る物質を感じることのできる人にはあったことがあり
ません。いまだかつて、自分自身のそとにとび出すこ
とのできた人はいません。それゆえ、魂を主張するが
わの方がすこし立場がつよいのです。第二に、魂の説
は宇宙を説明しますが、唯物論はそれをしません。そ
れゆえ、唯物論的説明は非論理的です。もしみなさん
があらゆる哲学をにつめてこれを分析なさるなら、そ
れらはことごとく、これら二つの立場のいずれかに還
元される、ということを見いだされるでしょう。そこ
でここでもまた、自然の純粋性と自由とについておな
じ質問が、もっと哲学的な、もっと複雑なかたちで提
出されるのが見いだされます。一方は、前者がまどわ
しであると言い、他方は後者がまどわしであると言い
ます。そしてもちろん、われわれはあとの方に、わ
れわれの束縛はまどわしであると信じる方に賛成し
ます。
ヴェーダーンタのあたえる解決はつぎの通りです。
すなわち、われわれは束縛されてはいない、すでに自
由なのです。そればかりでなく、自分は束縛されてい
る、と思ったり言ったりするのは危険です。それはあ
やまりであり、自己催眠です。「私はしばられている」
とか「私はよわい」とか、「私は無力だ」などとみな
さんが言うやいなや、わざわいなるかな、みなさんは
もう一本のくさりで自分をしぼることになるのです。
それを言ってはいけません。それを思ってもいけませ
ん。
私はつぎのような人の話をきいたことがあります。
彼は森の中にすみ、ひるも夜も「シヴォハム」すなわ
ち「私は神聖なる者である」という言葉をくりかえし
ていました。ある日、トラが彼にとびかかってひきずっ
て行きました。川のむこう岸にいた人びとが一部始終
を見ていたのですが、こえを出しうる最後の瞬間まで、
すでにトラの口中にはいったのちにさえも、彼が「シ
ヴォハム」と言っているのがきこえたといいます。そ
のような人びとはたくさんいました。きりころされな
がらその敵を祝福した人びとの例もあります。「私は
彼である、私は彼である、そしてあなたもそうである。
私は純粋で完全である。そして私の敵のすべてもそう
である。あなたは彼である。そして彼もそうだ」これ
は力の態度です。それでも、二元論者の宗教の中には
偉大な、そしてすばらしい要素があります。自然とは
別の、われわれが愛し崇拝する人格神の観念はすばら
しいものです。しばしば、この観念は非常に心をなぐ
さめます。しかし、とヴェーダーンタは言います、な
ぐさめというのはアへンがもたらす効果ににている、
不自然だ、と。それは長い間にはよわさをもたらしま
す。しかもこの世界が今日、いままでにもましていっ
そうつよく必要としているのは力なのです。この世
界のすべての不幸となるのはよわさである、とヴェー
ダーンタは言います。よわさはくるしみの唯一の原因
です。われわれはよわいから不幸になるのです。われ
われはよわいからうそをつき、ぬすみ、ころし、また
その他のつみをおかすのです。よわいからくるしみを
うけ、よわいから死ぬのです。われわれをよわくする
もののないところには死もかなしみもありません。わ
れわれはまどわしによって不幸になるのです。まどわ
しをすてよ。そうすればいっさいのものは消滅します。
実に明白な、そして簡単なことです。これらすべての
哲学的論議と膨大な精神的訓練とによって、われわれ
は、この世界中でもっとも簡単な、ひとつの宗教的観
念に到達するのです。
二元論的ヴェーダーンタは、みなさんがその中に真
理を失うことのできるもっとも簡単な形式です。
二元論をおしえることは、インドおよびその他の各所
でおこなわれた大きなまちがいでした。そのために人
びとは究極の真理を見つめることをせず、実に複雑な
道程にだけ、思いをついやすこととなったのです。多
くの人びとにとっては、このおそろしく哲学的でしか
も論理的なこの主張は不安なものでした。彼らは、こ
のようなものは到底一般にはうけいれられない、日常
生活の中に実践することは不可能だ、しかも、このよ
うな哲学の名のもとにひどく生活のみだれるおそれも
ある、と考えました
しかし、私は決して、一元論的思想が世間にむかっ
てとかれた場合に不道徳やよわさを生みだすであろう
などとは考えません。むしろこれこそが、見いだし得
る唯一の救済法であると信じる、十分な理由を持って
いるのです。もしこのことが真理であるなら、なぜ、
いのちの水がとくとくとかたわらをながれているのに
人びとにどぶの水を飲ませるのですか。もし、彼らこ
とごとくがきよらかだ、ということが真理であるなら、
この瞬間にその事実を全世界にむかっておしえたらよ
いではありませんか。それを雷のような音声をもって、
この世に生をうけたあらゆる人びと、聖者にも罪びと
にも、男にも女にも子供たちにも、王座の上の人にも、
街を掃除している男にもつげしらせたらよいではあり
ませんか。
それはいまは、非常に大きな、非常にたいへんな仕
事のように思われます。大多数の人びとにとっては、
それはどぎもをぬくようなことと思われます。しかし
それはほかでもない、まったくいままでおこなわれて
いた迷信のせいです。いままであらゆる種類のわるい
不消化な食物ばかりをたべていたために、あるいはひ
もじい思いをしていたために、われわれは上等の食物
をうけいれる力をうしなってしまったのです。われわ
れは子供のころからよわさの言葉に耳をかたむけて
きました。みなさんは人びとが自分は幽霊などは信じ
ないと言うのをきくでしょう。しかしくらやみの中で
多少のぞっとするような感じをおこさない人はまれで
す。それはまったくの迷信です。あらゆる宗教上の迷
信もこのようなものです。もし私が悪魔などというも
のは存在しない、と言ったとすると、それなら宗教は
なくなるだろう、と考える人びとがこの国にいます。
多くの人びとが私にむかって、悪魔がいないでどうし
て宗教が存在し得るか、と言いました。われわれをみ
ちびく何者かがいなくてどうして宗教があり得るか、
何者にも支配されることなしに、どうしてわれわが生
きることができるかというわけです。われわれはその
ようにならされてきているものですから、そのように
あつかわれることをこのむのです。自分は毎日何者か
にひどくしかられてきた、と感じないとしあわせにな
れないのです。これも迷信です。しかし、いまはそれ
がどんなにおそろしいことに見えようとも、いつか
は、われわれの一人ひとりがふりかえってみて、純粋
不滅の魂をおおいかくしていた迷信の一つひとつに微
笑し、よろこびとともに、まごころをもって、また力
をこめて、私は自由である、私は自由であった、そし
ていつまでも自由であろう、とくりかえす日がくるに
ちがいありません。
この一元論的思想はヴェーダーン夕からでてくるでし
ょう。そして、これは存続する価
値のある唯一の思想です。聖典はあすほろびてなくな
るかもしれません。この思想が最初にへプライ人の脳
裏にひらめいたか、あるいは北極地方の住人の脳裏を
かすめたのか、そんなことは誰もきにしません。なぜ
特定の民族の占有物でもない、ということをおしえて
います。人間、動物たち、および神々はすべて、この
唯一真理の共同受用者です。彼らすべてに、それをう
けいれさせましょう。なぜ人生を不幸にするのですか。
なぜ人びとを、あらゆる種類の迷信の中におちこま
せるのですか、もし彼らの中の20人が自分の持つ迷
信をすてさるなら、私は一万のいのちをあたえましょ
う。この国においてだけではありません。まさにそれ
の誕生の地においてさえ、この真理をつげると、人び
とはおそれます。彼らは言うのです、「この思想は世
をすてて森にすむサンニヤーシンたちのものだ。彼ら
にとってはそれでよかろう。しかしわれわれのような
あわれな家住者たちは、すべて何かのかたちのおそれ
を持たなければならない。儀式を持たなければならな
い」などと。
二元論的思想は、十分に長いあいだこの世界を支配
してきました。そしてその結果はこのようなものです。
この辺で新しいこころみをしてもよいではありません
か。すべての心が一元論をうけいれるまでには幾世紀
を必要とするでしょう。しかしいまそれをやりはじめ
ても、さしつかえないではありませんか。もしわれわ
れが一生の間に二〇人の人びとにこれをつげることが
できたとすれば、われわれは大事業をなしとげたこと
になります。
ここに、この思想への反対にあずかって力のある、
一つの考え方があります。「私は純粋なる者、至福の
者である」と言うのは結構だが、私はそれをつねに自
分の生活の中で示すというわけには行かない、と言う
のです。それはほんとうです。理想はつねに非常にき
びしいものです。生まれてくる赤ん坊はことごとく、
頭上の空を非常に高く遠いところに見ます。しかし、
それが、われわれが空の方を見てはいけない、という
理由になるでしょうか。かわりに迷信をとり上げると
いうことが、何かのたすけになるでしょうか。甘露水
を得ることができないからと言って、かわりに毒薬を
飲んだらうめあわせがつくものでしょうか。われわれ
がいますぐには真理を悟ることができないからと言っ
て、やみの中にはいり、よわさと迷信に屈することか
何かのたすけになるのでしょうか。
多くのかたちの二元論に対して、私は反対するもの
ではありません。私は大部分のものをこのんでいます。
しかし、よわさをおしえこむ説にはことごとく反対で
す。これは、私があらゆる男女、または子供にむかっ
て、彼らが肉体的、心理的、あるいは霊的の訓練をう
けていると知ると発する唯一の質問です。あなたはつ
よいか。あなたは力を感じるか。なぜなら、私は力を
あたえるのは真理だけである、ということを知ってい
るからです。真理だけが生命をあたえます。真理にむ
かってすすむこと以外にわれわれをつよくするものは
ありません。また、つよくならなければ人は決して真
理に達するものではない、ということを私は知ってい
るのです。したがって心をよわくする、人を迷信的に
する、人を陰気にする、また人にあらゆる種類のきち
がいじみた不可能事や神秘や迷信を追及させるような
教説を、私はこのみません。その結果が危険だからで
す。このような教説は決してよいものはもたらしませ
ん。このようなものは心中に病的な傾向をつくり、心
をよわくします。やがては真理をみとめることや、真
理を生活に生きることがほとんど不可能になるほど、
それほど心をよわくするのです。それゆえ、力は唯一
の欠くことのできないものです。力はこの世界のやま
いをなおすくすりです。力は、まずしい者が富める者
に圧迫されたときにもちいなければならないくすり
です。無学な者が博学の者に制圧されたときにもちい
なければならないくすりです。またそれは、罪びとた
ちが他の罪びとに制圧されたときに必要なくすりで
す。そしてこの一元論の思想ほど、大きな力をあたえ
るものはほかにはありません。この一元論の思想ほど
われわれを道徳的にするものはありません。いっさい
の責任が自分の上になげかけられたときほど、われわ
れが自分の最高最善を発揮してはたらけるときはない
でしょう。私はみなさんの一人ひとりにおたずねしま
しょう。もし私が小さな赤ん坊をあなたのうでの中に
おいたら、あなたはどのようにふるまいますか。ちょっ
とのあいだ、あなたの全生活はかわるでしょう。あな
たが何者であれ、しばらくの間はいっさいのわがまま
をすてるにちがいありません。責任があなたの上にな
げかけられるやいなや、あなたはすべての犯罪的な思
いをすてるでしょう。あなたの全性格はかわるでしょ
う。それゆえ、もし全責任がわれわれ自身の双肩にか
かってくれば、われわれは最高最善の能力を発揮する
のです。すくいをもとめるべき何者もいないとき、せ
めをおわせるべき悪魔もいないとき、かわって重荷を
はこんでくれる人格神もいないとき、一人われわれ自
身だけが全責任をおわなければならないとき、そのと
きにこそわれわれは最高最善の働きをするでしょう。
私は自分の運命に対して全責任があります。私は自分
に幸福をもたらす使者です。私は不幸の使者でもあり
ます。私はきよらかな、神聖な者です。これの反対を
主張するすべての思想を、われわれはしりぞけなけれ
りません。「私は死もおそれも知らない。私は階
級も信条も持っていない。私は父も母も兄弟も持たな
い。友も敵も持たない。なぜなら私は絶対の、実在・
知識、そして至福であるから。私は至福にみちた者で
ある。私は至福にみちた者である。私は徳にも悪に
も、また幸と不幸のいずれにもしぼられない。巡礼や
書物や儀式は決して私をしぼることはできない。私は
飢えもかわきもしない。肉体は私のものではない。私
は肉体にやってくる迷信やおとろえにも支配されはし
ない。私は絶対の、実在・知識、そして至福である」
これがわれわれがとなえるべき唯一の祈りである
と、ヴェーダンタは言います。これが、目標にいた
る唯一の道なのです。われわれは真性である、と自
分にも、また他のあらゆる人びとにも言って聞かせる
ことです。われわれがこれをくりかえしつづけて行く
うちに、力がやってきます。最初は口ごもる者もしだ
いにつよくなって声量はくわわり、ついには真理がわ
れわれのハートを占領し、血管をながれて全身に浸透
するのです。光が輝きをますにしたがってまどわしは
きえるでしょう。無知からくる重荷は、一つまた一つ
と消滅するでしょう。そしてやがて、他のいっさいの
ものはきえて、ひとり太陽だけが光り輝くときがくる
でしょう。