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正しい観念と間違っている観念


まずはじめに、今回の地震でなくなられた皆様に対して心から哀惜の意を捧げたいと思います

被災された方々と一緒に日本の一刻も早い回復にみんなで一丸となって力を合わせましょう






私達の現在機能している意識とは、実は、「意識」といえるものではなくて観念でしかないといえる。

観念とは思考の凝集したものである。(各身体によって意識は異なり、その次元によって意識は異なっているけれども、

この3次元と4次元の意識とは意識の表層であり、正確にいえば、これは意識ではなくて思考であるといわれている)

私たちの悲しみと、苦しみとは「意識」の内容ではなくて、条件付けられている脳に起こっている「観念」の内容でもある

とも言える。

この観念とは、肉体の頭脳から引き起こされている(有史以前からの)世界で共通のものであり、人類は全く同一であり

全員が同じように考えて、思い、感じている、行っている。

自分の思考や感覚や感情とは、全人類と全く同一であるのだ、他人と全く同じだ

それというのも頭脳の構造が同じであり、頭脳に経由された観念とは、その頭脳から引き起こされているものであるからだ。

すべての人類が自分は特別であって他人とは違っていると思っている。それこそが人類共通の同じ思考だ。


その頭脳が生み出した観念とは別の「意識」、その頭脳ではない「本物の意識」、私のものでもあなたのものでもない意識

頭脳が関与していない「意識」というものが有るが、それにはここでは触れないし、私にはそれに触れることが出来ない。

なぜなら、私という思考や観念では、それらの「意識」には触れられないからである。思考や観念の基底に意識が有ると・・

というのも、私の現在意識が純粋化していないので触れられないからである。現在意識に変革が起こっていないからである。

私たちの所謂「意識」とは、それらの「観念とは次元が異なっている意識」ではない思考でしかないので、とても「意識」とはいえない

従って、当面、私たちの次元であるところの観念、その私達の観念というものに絞って思考してみたい。



この人類共通の観念とは、具体的には一体何であろうか?

それは「私は個人である」「自分は他人とは別である」「自分が生きているのだ」「自分が行為している」「私は身体である」

「私は特別だ」というものである。

それは肉体次元の思考であり、感情体や思考体の思考であり、そして現在のパーソナリティーと魂の思考と意識である

そして、その次元体の「思考や意識」という観念から更に引き起こされている思考や知覚や実感というものは

「自分は最高でありたい」「ひとかどの人間でありたい」「一番でありたい」「成長して良くなりたい」「安定していたい」

「安心したい」「満足したい」等々である・・・

がしかしこれらの観念は、「私は個人だ」と、そう思い込んでいる間違っている観念であって、真実の正しい観念ではない。


人類が、共通して体験している現実世界とは、その観念から表出されたものであり、それは頭脳からの思考に拠っており

その頭脳の思考である人類の意識とは、条件付けられており、「私は他人とは別々の存在であり、分離している」

「自分は肉体であり」「自分は個人であり」「自分は人格であり」「自分は転生している個人だ」という間違っている観念である・・・


がしかし、この観念が表出して創られた観念世界、この現実世界とは、この観念が生み出している現実である

これらは条件付けられている頭脳から生み出された、機能の結果であり、それを自己同一視してしまった魂が生みだした世界である。

各器官による機能が生み出した「無知である感覚と知覚と観念」などと自己同一視した魂が生みだしている世界でもある。


この「無知である正しくない観念」を偏見にとらわれずに,溢れる愛を持って見ている観念が「正しい観念」である。


では、この「無知であり正しくない観念」を偏見にとらわれずに、愛情を持って正しく見ているという正しい観念とは何であろうか?

それはいまだ観念であり、賢者達の云う「意識」ではない。

がしかし、この観念は人類共通の観念である「条件付けられている意識もどきの観念」自体を冷静に見る事の出来る

愛のある観念なのである。



この観念から見ているものとは未だ観念ではあるけれども

その正しい観念では以下の事がわかる

「実際には個人といえるものは存在していない。」「実際には個別の自己とは、脳から生じている“私という観念”である」

「個人とは、根源が身体と頭脳を使って生み出している知覚と記憶とその実体感覚であり、

それを体感し、経験しているのは実は根源である。」

「起こっている事、出来事、そしてこの個人の行為とは、自分が行為していると思っている個人の行為を通じて

根源が起こしているのである」


「私達は個人ではなく、【個人という感覚や思考や感情を生みだし使って、この肉体を使って生きている】根源から造

られている人類であり、人類の行為は、(個人という個人感覚を使って)この根源自身が行為している」のではないか?

従って「行為しているのは、個人を使って生きている根源自体」である



それゆえに

この身体に転生してきて、この身体で起こっていることや、この身体の行為を実感した転生してきている魂が、

自分が行為して、自分が生きていると錯覚しているのであって、この思い違いとは魂が錯覚しているともいえる。

これらのことをラマナ・マハリシやラーマクリシュナやシャンカラという聖賢がたは口を揃えて云われている。

「神・根源が行為しているのであり、自分の事を肉体だと思い込んでいる、現在のパーソナリティーが行為しているのではない

それゆえに現在のパーソナリティーが行為していると思い込んでいるのだ」「身体から生み出された人格や個人は見ている

主体ではない、その私という個人は実在しておらない」と


またさらに、「真の私・真我は行為していない」「真の私は無為であって、行為していない」と

それゆえにこそ、この魂である現在のパーソナリティーの自由の範囲内でそれらのことを正しい観念で正しく観念する

ことが肝要である。


正しく観念すること、正しく思うこと、正しく行うこと、正しく瞑想することが現在のパーソナリティーと魂に求めらております。

この肉体に宿った魂側の意識のうち、頭脳に触れている部分である現在のパーソナリティーが、肉体の

行為を見て、かつまた肉体頭脳の感覚や、観念や、思考を実感して「私は肉体だ」と

肉体と、その記憶の人格とに、自分が全く同一化してしまったのである。



現在のパーソナリティーにとっては、「未知なる私」とは、魂という「真我の細胞」から構成されている分離できない全体

でもある私・意識である。

その未知なる私とは、至高の意識の私であり、

すべての個人や、すべての私に同一の魂の内奥にある真の私であり、すべての人類のわたしを自分であると

見ている私である。あなたの中にも、私の中にも「同一の真我」がある、その真我こそ私であると、云われている。

「すべてのあなたの中に本当のただ一つの純粋意識のわたしがある」といわれる私である。



すべての人の中にあるその私こそ、本当の私であり、意識であると云われる。

意識とは、意識であり普遍であって、個人ではなく、全体であり、この意識の次元とはこの物質界とは異なっている。

これが正しいことであり正しい観念である。そしてそれは観念だけだとはいえない。何故なら実在・真実が後ろに控えて

この正しい観念を支えているからである。

そしてこのことが、私達に於いて、この正しい観念が観念ではなくて、実感へと替わり、現在のパーソナリティーが浄化され

真実の意識と現在のパーソナリティーが繋がることが

私たち現在のパーソナリティーと魂の役割ではないだろうか

それには正しい真の私への瞑想の実践が求められるのではないのだろうか

これが八正道の実践である。